2013年2月9日土曜日

戦闘美少女・コウノサキ (上)


以下は、ずっと書きたかった、自分なりの、「神野紗希」作家論である。
正攻法ではない視点であり、本来重視すべき実証調査などを経ないままの評論であるが、一連の騒動を横目に見つつ、タイミングとしては悪くなかろうと思い直し、公開するものである。

以下の論述では、俳句作品に限らず、評論、インタビューなど、「神野紗希」と署名されたすべての「作品」から抽出される「作家」像を、批評対象とする。

作家本人の履歴を絶対視する必然はないが、得られる情報を排除する必要もないからだ。

また、一部に諸事情でお蔵入りした旧稿を利用した部分もあることをお断りしておく。



「戦闘美少女」コウノサキ

第4回俳句甲子園における神野紗希の「攻撃力」は圧倒的だった。
俳句甲子園を、地方の町おこしイベントか、俳句を使った高校生のゲームとしか思っていなかった人たちにとって(その見方は当時は妥当だったのだが)、彼女の登場は、文字通り彗星のごとく、突然変異とも思われたに違いない。

  起立礼着席青葉風過ぎた
  カンバスの余白八月十五日

高校生活のみずみずしい実感を「過ぎた」の一語に凝縮した一句目。
言葉のもつ歴史性や重量感に向き合う、真摯な向日性を感じさせる二句目。
それらは硬直した「俳句」観を揺さぶる、過激で刺激的なインパクトがあった。


戦闘美少女」とは、斎藤環が日本の漫画、アニメに特徴的なキャラクター類型として提起したものである。すなわち、ふつう戦闘にむかないと思われる、ティーンの可憐な「少女」が「闘う」という、キャラクター類型をさす。

斎藤は、「戦闘美少女」を、トラウマをもたない無垢な状態で「戦闘」をおこなう、倒錯的な虚構の存在である、と分析する。

斎藤によれば、欧米コミックに登場する、筋骨隆々のアマゾネス型女性戦士たちは、精神分析では「ファリック・マザー(権威的に振る舞う女性)」と定義される。これに対して日本の「戦闘美少女」は「ファリック・ガール」と見なせるという。


この見解をふまえたとき、「神野紗希」は、「ファリック・マザー」ではなく「ファリック・ガール」である点で、旧来の「女流俳句」から隔絶した位置を占めることになり、神野紗希の作家像を明らかにするうえで有効な視点となるだろう。


作家・神野紗希には、師系をたどることができない。

俳句を始めたきっかけや、彼女自身の俳句観から多くの先輩作家の影響を指摘できるが、しかし「俳句甲子園」に始まり、「NHK 俳句王国」の司会や学生句会、大学院での研究生活によって形成されたキャリアは、いわゆる結社や師系の枠に収まらない。

彼女が無所属で活動を続けているため、「俳句甲子園出身者は結社に属さない」という都市伝説・迷信が広がったが、実際は、先行者である神野が、その個性を発揮するために「無所属」という立場を偶然選んだに過ぎない。

むろんその立場は安穏ではなく、神野は、しばしば先行者としての苦渋を口にしている。
神野  俳句甲子園出身ですってことを俳句の人に言ったときに、どういう反応をされる?(・・・)私は実は、わりと風当たりが強かったという印象があるのね。俳句甲子園出身で、俳句をそのあとも続けてる世代の、一番上になるのかな。 
野口  風当たりが強いっていうのはどういう感じなんですか? 
神野  「あー、あの俳句でバトルする大会?」「イベント系、そっち系ね」みたいな。地味に俳句を作ってて、単に俳句が好きだってだけだということが、一緒に句会してもらえるまでは分かってもらえないというか。

「地味に俳句を作って」る。
彼女が目指したのは、そうした「作家」だったかもしれないが、周囲は、良くも悪くも「イベント」出身の「若い女性」に注目したし、作品も注目に値するものだった。

実作でのインパクトを「攻撃力」に喩えることが許されるなら、理論や知識に裏打ちされる批評は「防御力」に喩えられるだろう。

季語のこと。
女流ということ。
師系や結社のこと。

俳句史がいくども問い返し、そのたび疲弊し、ついに棚上げになってきた、ややレトロでマンネリな課題を、彼女は一つ一つ自分のものとして引き受けてきた。

テレビ、新聞、雑誌、ネット、あらゆるメディアに「若い女性作家」の肩書で期待される葛藤と妥協のなかで、彼女は、常に闘い、自らの俳句を育ててきたのだ。


一方、神野紗希は、とても愛される作家である。
 神野紗希の作品は、これからいくらでも成長し、変化してゆくに違いない。今の段階では「この人はこういう作家である」と断言できない。しかし、荒涼たるものを彼女がきっちりと五七五におさめて見せてくれるたび、言いたくなるだろう。「この人がいるから、俳句は大丈夫です」と。
櫂未知子「陸封の感覚の人」『俳壇』20118月号


 神野紗希には勿体ぶったことばや飾り立てたことばが自分に合わないことがわかっている。『光まみれの蜂』はそんな安心を予感させる。 
 今を生きながら今に流されず、あくまでも自力をたよりに冒険や朝鮮、自己更新を試みつつ、愚直に健やかに今後を進まれるように切望している。
宇多喜代子「すこやかな句境」『光まみれの蜂』(角川学芸出版、2012)栞

宇多のいう「安心」は、櫂の「この人がいるから、俳句は大丈夫です」という言葉に重なる。どちらも若い後進への信頼と愛情にあふれた作家評である。

ここもまた誰かの故郷氷水

宇多のひく一句。
「ここもまた誰かの故郷」は、「今日もだれかの誕生日」などに類する言い回しであり、類想がありうる。(こころみにgoogleで検索してみるとよい)

一句を成立させているのは、「氷水」の爽やかな郷愁と冷ややかさである。この季語の斡旋に「安心」する読者は多いはずだ。

しかし「安心」は、作家にとって幸福なほめ言葉ではない。
結局、「安心」とは、「驚異」や「脅威」とは無縁の言葉だろうからだ。

(続)

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