福田若之くんの評論。
結局のところ、僕の感性にとって、「べき」論とは、自分の空想の中にある理想の俳句を現実に追い求めるあまり、目の前の作品をそれとして楽しむことさえままならなかったという、残念な報告にすぎないのである。それでは、作品があまりにも不憫ではないか。
長文だけれど、結論部分はここでよいのだろう。
これについては全面賛意。
ここのblogで一ト月ほど前に呟いていたことも、要するにそういうことだった。
ある意味とても当たり前で、わざわざ言うことでもない、かもしれない。ただ、福田くんはそのへん、当たり前を軽んじることなく誠実に丁寧に思考していて、それだけでも優れた評論というべきだ。
ある意味とても当たり前で、わざわざ言うことでもない、かもしれない。ただ、福田くんはそのへん、当たり前を軽んじることなく誠実に丁寧に思考していて、それだけでも優れた評論というべきだ。
表現に関しては、どうだろう、接したことも、接するつもりもない職種の人を卑近な喩えのように使う、というのは、文章家として驕りというか半可通な印象はある。
表現として下品だ、控える「べき」だ、という人もいるのだろう。(嗚呼、「べき」論)
追記。この文章の場合、言葉自体を使うことが不道徳だとか、そういうことではなく、むしろ不道徳だという前提に立って「したいともしようとも思わないし、したこともない」と言ってのけ、しかもそれにまつわる行為の在り方について云々する、まさにそれを「傲慢」というのであって、同じ喩えにしても北大路翼氏がこの喩えを使った場合はまったく違う文章に置き換わるだろう。だからまぁ、やはり適切な喩ではなく、不用意な文章だ、とも思うが、それを含めて「その傲慢で独りよがりな義憤は尊いと思います。こういう批評のあり方を」私も支持します。 2013.02.22
とはいえ、そういうちょっと偽悪的な部分もふくめて、華のある文章だな、敵わないな、とうらやましく思う。
彼の文章は、そういう偽悪的な部分を、たぶんややレトロなものとしてもどいてみせる楽しみがあって、文章表現として楽しめる人は楽しめるし、評論に明晰さしか求めない人は不快感を持つだろう、と思う。
でも、良い反応も悪い反応も含め、反応を引き出せる存在感のある才華がうらやましい。
福田くんの評論集が出たら、買いますよ、俺。
*
華のある文章、というのとは少し違うが、いつも楽しみにしているのは外山一機さんの批評である。発表されるたび、その筆鋒の鋭さ、認識の確かさにうならされる。
神野紗希句集についての辛辣な評が発表されたころ、俳句友だち何人かに、その感想を求められて、正直戸惑った記憶がある。
こんなにも明るい主体からはおそらく何も生み出されないと思うからだ。しかしそれが何だというのか。神野はこれからも彼女の手の届く範囲で手の届く範囲の人に向けて俳句をつくるのであろう。
個性の違いを超えて、同年代の見ている風景を実に的確に捉えた評だと思う。
だから、神野さんの「さすが同年代、わかってる」発言は、多少の営業スマイルはあったにしてもごく自然に受け取れたし、神野さんをうらやましいと思いこそすれ、この程度のことで「黒紗希」だなんて思いもしなかった。
ていうか、紗希さんの懐の深さ、ど根性は、そんな浅いトコじゃないでしょ、と。
だから、あの批評を、まるで神野さんへの侮辱のように捉えている人に対しては、戸惑って曖昧な答えしか返せなかったと思う。
たしかに、外山さんの文章は逆説や皮肉、反語、韜晦が入り交じっていて、彼自身が本当はどう思って書いているのか、真意がわかりにくいことが多い。
しかし、見えている風景は同じだと思う。
ただ、私はその風景を、基本的に「同世代の心地よい日常」と捉えるのだが、外山さんは一概にその風景をただ「明るい」ものとは捉えていなくて、「明るいと捉えざるを得ない自分たち」、というようなアイロニカルな表現になってしまう。
その、旧世代への親近、同年代への屈折した愛情が、外山一機という作家・批評家を成り立たせている個性であって、その屈折を共有しながら、あえて作品に出さないよう努めているが神野紗希、なのではないか。
*
必ず読む、ということもないけれど、冨田拓也さんの文章も楽しみにしている連載のひとつだ。spicaで続けている連載「百句晶晶」は、すでに80回を超えている。
中村草田男、とっくに出たと思ったら、意外に初登場。
草田男句のもつ「過剰さ」「複雑さ」についてじっくり迫っていて、答えは見えないけれど輪郭を捕まえている、という感触がある。
草田男句のもつ「過剰さ」「複雑さ」についてじっくり迫っていて、答えは見えないけれど輪郭を捕まえている、という感触がある。
冨田さんの文章は、非常に佶屈というか、断定を避けるあまり妙な修飾が過剰になる傾向にあって、お世辞にも名文と言えない、というかはっきり言えば悪文である。
作文の見本としては落第であろう。
しかし、幾たびも繰り返し繰り返し句に向き合い、書きながら考え、考えながら書いている、粘性の思考過程がそのまま滲み出るかのような文体は、一度受け入れてしまうと案外癖になる。
しかも取り上げる作家もいい具合に偏っていて、文体とともに、理屈で割り切れない、作品の持つ妙な「味」のようなものが、浮かび上がってくる仕組みができている。
明晰なだけが鑑賞の個性ではないことを知らしめる文章である。
明晰なだけが鑑賞の個性ではないことを知らしめる文章である。
*
粘性、というのとは少し違うが、息の長い連載といえば、小川春休さんの「朝の爽波」も相当なもの。
こちらも毎週読むというよりは何週ぶんか、まとめて読むことが多いのだけど、最近読んでいて面白かったのは次の発言。
波多野 ええ。若い人から評価を受けるのはうれしいけれども、今度もしそういう人たちに会う機会でもあれば、決してあんな句はあなた方は作らないで、あれは爽波だけの領分だと思ってやってくれとね
ふーん、爽波はそんなことを言っているんですか。
爽波は、たしかに面白くて、特に『骰子』なんかは、巻頭いきなり
炬燵出て歩いてゆけば嵐山
ですからね。
そうそう真似の出来る境地ではないと思うけれども、やっぱり面白いですよね、と。
面白い俳句、作りたいと思ってはいけないのかなぁ?
これ、爽波好きの麒麟さんにも聞いてみなくては。
0 件のコメント:
コメントを投稿