2011年7月19日火曜日

評論の作法(下)

 
承前


2.定義のあいまいさ


これは1より大きな問題だ。まず「戦闘美少女」という本書の注目するカテゴリ自体が、相当振れ幅の大きいものである。
本書第五章「戦闘美少女の系譜」では、1960年代~90年代のアニメ、漫画、ドラマに登場する「戦闘美少女」が大量に列挙され、13の類型に分類されている。そのうえで「物語設定はわずか一三の系列分類に尽くされる」というのだが、これが実に問題が多い。

「紅一点系」としてゴレンジャーやガッチャマンが入るのはわかるとして(彼女らは少女というより成人女性だが)、「銀河鉄道999」が分類されるのは何故か。ご存知メーテルは戦闘もこなすが、むしろ鉄郎に対する母性が際だっており、時間を旅する全能の賢者とでもいうべきであり、どちらかといえば「巫女系」に近いだろう。また「同居系」と分類されるラム(うる星やつら)、小璘(まもって守護月天)は「戦闘美少女」なのだろうか。むしろ和登サン(三ツ目が通る)や毛利蘭(名探偵コナン)のほうが「戦闘」に近いのではないか。分類表には含まれないものの本文中には作者の「思い入れの深い作品」として「じゃりン子チエ」に言及があり、「戦闘」はどこへ行ったかと疑われる。そういえば我らが猫娘(ゲゲゲの鬼太郎)や雪女(地獄先生ぬ~べ~)はどう理解できるのか、……
などなど。

これらはすべて「戦闘美少女」の定義、あるいはそれぞれの分類の定義が明示されていないためにおこる疑問である。
また長編漫画では物語の展開に応じて、あるいはもっと露骨に世間にウケる方向にシフトして、連載中にキャラクターが変化する場合も多い。
たとえば「ドラゴンボール」のブルマは当初はバイクにまたがり宝を求めて冒険する美少女であったが、後半ではほとんど傍観者になっていた。「こち亀」の秋本麗子の造型なども一定しているとはいえまい。

こうしたブレを考察するためには、どのキャラクターのどの部分をもって「戦闘美少女」と認定するか、またどの分類とするか、明確な基準が必要である。
恣意的、主観的な分類で「わずか一三の系列に…」とするのは、自家撞着の議論というべきであろう。

さらに対象となっているジャンルに、アニメ、漫画ばかりでなくテレビドラマや映画が含まれていることで事態はより複雑化する。
基本的に本書が対象としているのは「おたく」の愛好するアニメ漫画における「虚構の存在」としての「戦闘美少女」である。
ところがここでは「セーラー服と機関銃」「スケバン刑事」なども参照される。これらはアイドルが主演したということで虚構性が高い、と見なしているようなのだが、ではほかの映画やドラマではどのような状況だったのか、それについて一切言及がない。当然、ほかのヤンキーものやトレンディドラマにおける女性像が参照されるべきだろう。

上記類型に「宝塚系」があること(リボンの騎士、ベルサイユのばら)でもわかるとおり、「戦闘美少女」はすでに舞台上に実在した。宝塚の男役だけでなく、歌舞伎の女形の問題もある。類型「服装倒錯系」(ひばりくん、らんま)の延長上に位置づけられる「オヤマ!菊之助」が主役に女形を据えていることは、後述の歴史性の問題とも関わって重要であり、なぜ本書が言及しないのか疑問である。

このように、対象を広げれば「戦闘美少女」の問題はどんどん拡散する。
結局のところ、本書の論述が1960年代以降のアニメ、漫画に焦点を絞った理由が明らかでないため、「おたく」と「戦闘美少女」とを結ぶ着眼の根拠も疑わしいものになってしまうのだ。



3.非歴史性

すでに言及したが、本書の論述対象は主に1960年代以降のアニメ、漫画に集中している。
ところが実際にはアニメ、漫画に限らず、日本には「戦闘美少女」が存在しており、アニメ、漫画の「戦闘美少女」はこの延長上に誕生したと考えられる。

まず歌舞伎で有名なものは女装した盗賊、弁天小僧菊之助だが、近世に上演された演目には女形の立ち回りを見所にしたものも少なくなかったらしい。
その直系と言うべき剣劇女優(浅香光代など)の系譜は、のちの時代劇における女剣客に引き継がれている。池波正太郎「剣客商売」は連載が1972年~、ドラマ版は73年~らしいだが、本作に登場する女剣客・佐々木三冬の造型は明らかに「るろうに剣心」「サクラ大戦」などに近い。アニメ、漫画と同時代の時代劇作品についてはもっと検討が必要であろう。

また、本書がディズニー映画「ムーラン」や、中国アニメ「白蛇伝」に言及しながら、中国文化に触れないのも片手落ちである。
本書は再三、欧米文化との差異を論じながら中国文化について目を向けず、「西欧」と「日本」との対立にしか言及しない。前近代日本文化における圧倒的な大陸の影響力を思えば、あまりに歴史的視座を欠いた考察である。
あるいはアニメや漫画に限定すれば、当時の中国アニメは論及対象に及ばなかったかもしれないが、カンフー映画に言及がないのは惜しまれる。
私は映画には詳しくないが、武侠小説には数多くのヒロインが登場しており、いずれも武術の達人として活躍している。
中国の国民作家である金庸の武侠小説が翻訳され始めたのは1996年以降だが、そもそも中国では武侠物に男性顔負けの美女、美少女が登場するのは当たり前で、古く「水滸伝」の一丈青や瓊英、「封神演義」の鄧蝉玉、「西遊記」の羅刹女などは日本でもよく知られており、京劇でも活躍する。また武田泰淳が小説化した「十三妹」は「児女英雄伝」に登場するヒロインであり、典型的な戦闘美少女と言うべき存在だ。

このように中国-日本の文化には戦闘美少女を受容する文化的土壌がある。

アニメ、漫画の戦闘美少女はその土壌の上に成立したのであり、1960年代に突然現れたのではない。
アニメ、漫画と、これら先行ジャンル、あるいは先行作を引き継ぐ他ジャンルとを比較検討しなければ、アニメ、漫画における戦闘美少女の爆発的増殖も理解できないのではないか。

むろんこれら全てを論じることは不可能だし、論じたとすればかえって粗雑な議論になるばかりだろう。
だからこそ、2で指摘したように論及の対象を限定し、その範囲内での精度を高めるべきだったのではないか。時代で区切るか、ジャンルで区切るか、は論者によるが、論述対象に限定をかけるほうが、他との差異がより明確になったのではないだろうか。
  

1 件のコメント:

  1. とても魅力的な記事でした!!
    また遊びにきます。
    ありがとうございます!!

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