2009年11月19日木曜日

「つづきのやうに」 を読む

 
 野遊びのつづきのやうに結婚す

俳句という短い詩型は、断定に向いている。
ああでもない、こうでもない、と言葉を連ねるひまはなく、ただ簡潔に言い止める、それが俳句の理想の、あるいは典型的な、スタイルだ。
だとしても、これらの見事な「言い切り」は鮮やかだ。

 材木は木よりあかるし春の風
 霜の夜の足音ばかりなる団地
 冬眠の骨一度鳴りそれつきり

「材木」に見る「あかるさ」。「団地」中から聞こえてくる「足音」。「冬眠」中の獣が鳴らす「骨」の音。いずれの五感も想像の域に達しつつ、きわめて具体的で実感がある。
これらの句にも見られるように、「~よりも○○」、「~ばかり」といった、きわめて「俳句的」な文体、つまり物事を焦点化させる文体を好むのも、それが言い切ることに慣れた文体だからだろう。
だから、失敗してしまうと、ちょっとあざとい。いかにも俳句的な「ウケ」を狙ったように、見えてしまう。

 どの粒も蟻より重し夏の雨
 焼酎や親指ほどに親小さき
 暮れてより親しきわが家足袋白し
 年忘やがて手拍子だけ残る

しかし、たとえば山口誓子や中村草田男の句にときどきあるような、独善的な感じは受けない。
断定はするのだが、彼はそれを押しつけないのである。その意味で彼の句は、とてもしなやかな知性を感じさせる。

 行列のところどころが花粉症
 なま卵すなほに割れて緑さす
 水は街さまよつてゐる熱帯夜

言ってみれば彼の俳句は、独白なのだ。
本人が、ある出来事に対して、ナルホド、と理解する。理解の仕方。ああ、これって、こういうことなのか、と。その「納得」を、ふと言葉にしてみる。そんな俳句なのである。

 目の中を目薬まはるさくらかな
 吐き出せる巨峰の皮の重さかな

これなど、まさに本人も会心の「納得」だと思う。
「目薬」をさすとたしかに眼球のなかをまわる感覚がある。「巨峰」をまるごと食べたことはないけれど、ちょっと皮を剥いて口に含んで、皮を吐き出したことはある。吐き出した後の「巨峰の皮」は、実を出したはずなのに汁気を含んで重く、皮だけだけでも皿の上にしっかり存在感があるものだ。


ただ、本人は、なかなかいい理解の仕方、だと思っているに違いないのだが、周りは必ずしもそうは思っていないようなものもある。彼の理解は、ときどき妙なのである。
正直、そこにこだわって、どうするの?

 人波のまだナイターに残りをり
 炎天や食つてはたらく男たち
 あけがたの動物園の冬の水
 白鳥を見てゐて首が凝りにけり
 踏切は夜も踏切沈丁花

「白鳥を」「踏切は」はちょっとおもしろいが、「人波の」「炎天や」「あけがたの」などは、当たり前のような気がして、なにがおもしろくて詠んでいるのか、よくわからない。
もっとも、彼にとっても、共感されれば喜ぶだろうが、共感されなくても、たぶん、構わないのである。読者にしたところで、妙なところで「納得」している彼を見るのも、その妙な解釈を聞くのも、またそれがときに当たり前すぎるというのも、いかにも「俳句的」ではあろう。
さきほどから無責任に「俳句的」との評を使っているが、それほど彼の句には無理がない。彼の句に、ある種の食べ足りない感じを覚えるとすれば、まさにその「無理のなさ」に原因があるだろう。彼は、ある「発見」や「納得」を俳句の文体に収めるとき、ほとんど無理をしていないように見える。ところが、あんまり無理なく俳句の文体に収めきってしまうと、却ってもとの奇妙な「発見」の、奇妙さが消えてしまって、当たり前になってしまう。

その意味では、俳句の文体のなかにあって、なおかつ何かはみ出している次のような句は、全体では珍しい。

 火葬場に絨毯があり窓があり



掲句に戻ろう。
 野遊びのつづきのやうに結婚す
彼のしなやかさ、軽快さは、掲句にもっともあらわれている。
彼はマイペースに、自分なりのペースで世界を作っていくだろう。
「野遊びのつづきのやうに」、自分なりのペースと、現実との折り合いで、案外器用に、意外としたたかに、彼は彼の俳句を作りつづけるに違いない。





作者は、山口優夢。


※ 本稿は、『俳句』2009年11月号掲載の第五十五回角川俳句賞候補作品「つづきのやうに」に対する鑑賞文です。
 文体については、山口優夢氏がブログ「そらはなないろ」他で発表されている、「句集を読む」シリーズの文体をパスティーシュさせてもらいました。
 遅ればせながら、優夢氏、角川俳句賞最終候補、おめでとうございます。
  

※ 一度アップしてから、ふと思いついて同日中に加筆しました。

 

2009年11月16日月曜日

告知

 
先日、話題に出しました『国文学 解釈と鑑賞』の鑑賞文を、「週刊俳句」で書かせていただきました。
「虚子の未来・俳句の未来 特集 高浜虚子・没後50年~虚子に未来はあるか」(『国文学 解釈と鑑賞』2009年11月)
ってタイトルです。なんかすごいタイトルですが、あまり期待しないでください。特集全体の意図をとるべく努力したつもりですが、そのぶん各記事に対するツッコミは甘いです。『虚子百句』の読みなど、細かいところで面白い意見が多かったのですが、触れきれませんでした。
ただまぁ、ラインナップ見ていただければ分かるとおり、非常に「船団」に近い執筆陣です。「船団」の仕事を「船団」会員が紹介する、というのも奇妙な話なのですが、それはそれ、寄稿依頼いただけたのをよしとして書かせていただきました。

ちなみに、「週刊俳句」今週号では池田澄子さんの十句も読むことができます。
ついでにご一読いただければ幸い。
 → 
週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句 第134号 2009年11月15日

*

と、上のお仕事を、とりあえず師匠方にお伝えしたところ、ありがたいものでさっそくご紹介いただきました。
出してみたはいいけど何の反応もなく黙殺された一句をひいて、絶賛してくださってます(^^;。

恐懼。
 → 
http://sendan.kaisya.co.jp/ikku.html

2009年11月6日金曜日

鬼貫


11/3、鬼貫青春俳句大賞公開選考会に行ってきました。
 →
http://www.kakimori.jp/2009/11/post_103.php

大賞に輝いたのは、羽田大佑氏(京都産業大学四年)の 『カタカナ+ひらがな+漢字=俳句』。
  短夜の港を映すグラスかな
  専攻は古代ギリシャ語星月夜
  マフラーを巻く本心に触れぬやう
以下、優秀賞に、山本皓平氏 『ファンシー・ゲリラ2009』 、北嶋訓子氏 『ささくれ』、杉田菜穂 『曲がり角』。

受賞作品若干(一句ずつ)が、柿衛文庫HPで公開されています。大賞作品は来春の『俳句研究』号に全作公開されるはずですので、そちらでご確認下さい。

羽田氏は前々からの句会仲間。吹田東高校から俳句甲子園に出場し、「百鳥」(大串章主宰)に所属。長らく大きな賞には恵まれていなかったけれども地道に俳句を続けていて、いま関西学生句会では重要戦力のひとりである。作風は普段、ウェットに富んだ叙情句(というより、ロマンチッ句)、が目立っていたのだが、今回の30句は叙情がほどよく抑えられ、また、なんといっても秀逸なタイトルで注目をあつめた。タイトルどおり、すべての作品にカタカナ、ひらがな、漢字を使っており、しかもカタカナはカナ表記というわけではなく実際の外来語由来のもの。日本語の多層性を意識した意欲的な作品だった。 最近は就職活動が難航しているそうで、そのあたりの鬱屈が、むしろ作品に勢いをつけたのかもしれない。
会場の空気も味方にして、大賞に輝いた。
おめでとうございます。

優秀作に、あやういところで生き残った話題作『ファンシー・ゲリラ2009』の山本氏も句会仲間で、これは「船団」仲間でもある。仏教大学三年、坪内ゼミに所属して近代文学を専攻しているが、ぱっと見、どーみてもブンガクしているようには見えないちゃらんぽらんさが魅力。いや、根は気ぃつかいのおもしろい男なんですけど。ギターが弾けたり酒に詳しかったりお洒落にうるさかったり、いろいろ多芸。 「船団」の先輩方に、いまもっとも期待されている青年であり、彼も本来のロマンチッ句から飛翔してにぎやかな意欲作、実験作で受賞にこぎつけた。

公開選考会のいいところは、なんといっても選考委員の意図が目の前で見られること。いわば「句会」の延長線上であり、どういった作品が、どのような場で「大賞」と成るのか、過程を見られる、そのことが会場にとっての収穫だ。
受賞した側にはもちろん、落選組にも次へつなぐヒントが見える。
句会をともにしていて、その姿勢をよく知っていれば、なおのことである。
その意味で、今回はいろいろと勉強になった。なにより受賞した四作品はどれも選考委員に「採りたい」気持ちをおこさせる勢いがあった。完成度より冒険より、俳句に対してどう向き合っているのか、作品からくる勢い、迫力、それを選考委員が受け止めて、受賞につながった、のだと思う。
落選組にとっては、「次」が勝負である。

*

上の文、負け惜しみ97%。 
いや、例年どおり意外と平静なんですが、やはり「採りたい」気持ちにさせられない作品、て全然意味がないなぁ、というのを思い知りました。こっから、どう立て直せるかですが。

*

「週刊俳句 角川俳句2009落選展」、引き続き開催されています。
友人知己を中心に、ぼつぼつ鑑賞も書かせて貰ってます。拙作への評も書いていただきました。
こういう「場」があることが、落選組にとっては「次」へつなげる原動力になる。ありがたい企画である。
→
週刊俳句 Haiku Weekly: 落選展2009 会場

 

2009年10月27日火曜日

備忘録


長い文章を書こうと思いながら、なかなか話がまとまらないので一旦中断し、備忘録代わりに言及したい記事を列挙しておきます。

*

ひとつめは、『国文学 解釈と鑑賞』74巻11号(ぎょうせい、2009年11月)特集 「高浜虚子・没後50年―虚子に未来はあるか」。
過激なタイトルだなぁ、と思ったら、坪内稔典編集、でした(笑)。
http://www.gyosei.co.jp/home/magazine/magazine_detail.html?gc=4100020-09-110

坪内先生が宣伝されているのでもう少し話題になるかとも思ってたのですが、俳人関係のブログでもあまり言及がないのは、やはり専門雑誌だからでしょうか。
ちなみに本誌には出ていなかった、タイトルに寄せる思いが述べられていて興味深かったので、引用しておきます。

「高浜虚子・没後50年―虚子に未来はあるか」が特集の題だが、これは私がつけた。著作権が切れ、虚子を自在に読み解くことができるようになったので、あらためて虚子の文学の持つ可能性を考えたいと思ったのである。
「ねんてんの今日の一句」 http://sendan.kaisya.co.jp/nenten_ikkub09_1002.html

ご存じない方のために紹介しておくと、『解釈と鑑賞』は、岩波『文学』を除くと国文学関係では現在一番メジャーな総合誌。(『解釈と教材研究』は廃刊したので、あと総合雑誌は『日本文学』でしょうか) ほぼ毎回特集を組むので依頼論文が多くなるという欠点はあるものの、公立図書館などでも取り扱っていることも多い雑誌です。 いわゆる、「俳句世界」関係以外からの考察も多く、一読の価値あり。

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ところで、坪内先生が興味深い発言。

ところで、「俳句」8月号は実にすっきりしている。誌面の約半分が多佳子特集で、あとは評論や時評のみ。このころの俳句人口は今の何分の一かだったが、いわゆる俳句商業誌の編集は今よりはるかに質が高い。初心者(俳句入門者)を相手にしていないから。
「ねんてん今日の一句」http://sendan.kaisya.co.jp/nenten.html

むむ? 総合雑誌批判だとすれば、坪内先生のいつものスタイルに代わりはないが、「初心者を相手にしない」こと、に対して好意的なのはちょっと意外。これはどう展開するのか、しないのか。
明日の更新を見守りたいと思います。

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「季語について」 
は、俳句を作っているとどうしても避けて通れない課題ですが、お世話になっている、「船団」のわたなべじゅんこさんのブログでも最近興味深い言及がありました。
 →
http://junkwords.jugem.jp/?eid=76

なるほど、そういえば「季重ね」、有名な「目に青葉山ほととぎす初がつお 素堂」ではないですが、古い句ではさほど大きなタブーにはなっていないようです。
わたなべさんのブログでは「秋桜子」が容疑者に挙げられていましたが、どうやら違うようで、というのは昨日本屋で『別冊俳句生活』を立ち読みしていたら、小澤實氏、中原道夫氏、片山由美子氏、神野紗希氏らの座談会で同様の話題が取り上げられていました。 そこでは久女、秋桜子の句もあがっていたようなので、どうやら秋桜子が唱え始めたわけでもなさそう。
古俳諧に詳しい小澤氏にも「タブー化」した経緯は結論出ていませんでしたが、やはり「初学者」向けのタブーだったのではないか、という予測。 ということは、まぁ経験則からなんとなくできあがったルールで、あまり根拠のあるものではない様子です。

『別冊俳句生活』は毎回テーマに真剣に向き合っててとてもいい作りだと感心しきり。
しかし、欲を言えば、毎号神野さんと高柳さんを見るってのもどうなんだろう(^^;。 意地悪く見ると、どちらか出しておけば清新でいいだろう、ていう安易な意向が見えるのですが、それがまた図にあたって、お二人が興味深い発言をするのが困りものです(苦笑。 
まぁ、人間、欲を言い出せばきりがない、ということですね。

*

久しぶりに自分の宣伝。
「週刊俳句」2009年角川俳句落選展 に参加させていただいています。

 →
週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句 第131号 2009年10月25日

今年は落選展応募者から「予選通過」が五人も出ていて、レベルが高いです。
感想を寄せたい作品がたくさんあるのですが、これもじっくり読む時間をとれていないので宿題。

*

第6回鬼貫青春俳句大賞 【公開選考会】 のお知らせ。

☆公開選考会・表彰式・・・2009年11月3日(火・祝) 午後2時~5時

 於 柿衞文庫講座室(兵庫県伊丹市宮ノ前2-5-20)
● 下記選考委員(敬称略)による公開選考 どなたでもご参加いただけます。
 稲畑廣太郎(「ホトトギス」副主宰)
 山本純子(詩人)
 坪内稔典(柿衞文庫也雲軒塾頭)
 岡田 麗(柿衞文庫学芸員)
 岸田茂男((社)伊丹青年会議所 副理事長)    以上 5名(予定)

2009年10月12日月曜日

歌は読んでるだけでおもしろい


『俳句』今月号に掲載されていた高柳克弘氏の「現代俳句の挑戦 「食」をめぐる風景」を興味深く読んだ。
高柳氏の俳句と「食」については以前すこし考えたことがあるので、マジメに考えてコメントしようと思っていたのだが、佐藤文香氏の文章が出たのでやる気を失ってしまった。
 曾呂利亭雑記記事→曾呂利亭雑記: 世代論とか

高柳氏の文章を、誤解を恐れずざっくりまとめると、もともと俳句は「食」に相性のいい詩型だが、現代の食の荒廃に慣れた世代の俳句はちょっと変わってきたかも知れない、ということを、現代歌人の作品を引き合いに論じている。

  これなにかこれサラダ巻面妖なりサラダ巻パス河童巻来よ  小池光
  雨の県道あるいてゆけはなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斎藤斎藤

小池氏の作品は回転寿司を詠んだ連作なのだそうだが、特にこの作品が秀逸。
高柳氏は前者を「食の聖性を体感してきた世代」の「現代の食に対してある違和感」を持っている作品とし、後者を「食の聖性が失われた風景に慣れた、開き直りとも取れる呟き」としている。
さて、後者同様「食の荒廃」世代にあげられた佐藤文香氏は自身のブログで、反論というのではないが、その「変化」は意識的作為的にしているもの、と発言している。

私に関して言えば、食べ物や食べることを素晴らしいと思わないのではなく、それをそう書くことを素晴らしいと思わないのであるから、美味しそうに書かない私の句というのは、リアルというより実は虚構に近い。

http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-430.html

斎藤斎藤氏と佐藤氏の作品とを比べると、「食の荒廃」というほど強い感じはない。それは潜在的に佐藤氏が「食」への愛着を切り捨てていないからだろうし、本人の意識とは別にそこが作品の安定感を生んでいる。
  アイスキャンディー果て材木の味残る  文香
  新茶葉の嗅いではしまふ茶筒かな
  みつちりと合挽肉や春の海
「アイスキャンディー」は高柳氏も挙げているが、これもアイスキャンディーの味の先に「材木の味」を発見したのであり、「食にまつわる聖性が、あっけなく剥ぎ取られている」とまで言えるかどうか。
ちなみに、私が初めて接した佐藤文香氏の俳句は(当時は彼女のことはまったく知らず、いま考えてみれば、ということだが)、次の「おいしそうな」一句だった。
  白桃の汁の肘より落ちにけり

*

読もう読もうと思っていた渡部泰明『和歌とはなにか』(岩波新書、2009年)をようやく読了した。
著者は1957年生まれ、東京大学大学院教授。かねて和歌表現を身体的に捉える理論で注目されており、和歌研究をリードしている研究者である。どうもご自身演劇青年だったそうで、野田秀樹率いる「夢の遊眠社」で活動されていた経験があるらしい。

内容は主に平安末から中世初期を対象としているが、和歌表現を「演技」と捉える視点から、文字通り「和歌とはなにか」という通時的な大きな問いに正面から答えてくれる内容となっている。
もともと私は和歌が苦手で百人一首もおぼつかない程度なのだが、本書は渡部理論の集大成ともいうべき内容で、和歌についてイチから考える入門書として、とてもおもしろい。
まず、序章からして挑発的である。
さて、どうして、和歌は五句・三十一音なのだろう。難しい問題である。五・七・五・七・七音形式に定着した経緯も不思議だが、もっと不思議なのは、この形式が続いてきたことだ。……簡単に言えば、こういうことだ。何のために、何が面白くて、人は和歌を選び続けたのか、と尋ねようと思うのである。(P.3)
きわめて真っ直ぐで、しかも大きなテーマである。

本書は二部構成で、第一部「和歌のレトリック」では、和歌独特の表現技術(「枕詞」「掛詞」「本歌取り」など)について、一見「無駄」で「持って回った」この種の「和歌的」表現技法が続いてきたのか、を問うている。
結論から言えば、著者の考えは、次のようなものである。
先ほど枕詞について、引き出しの取っ手のようだという比喩を用いた。取っ手は、開けるという行為の中で意味をもつ。それ以外では、基本的には邪魔物である。この論理をレトリックに応用してみよう。レトリックは、普段は余計物だが、ある特別な行為とともにあるとき、意味を発するのではないだろうか、と考えてみるのである。……そして、レトリックには、儀礼的空間を呼び起こす働きがあるのではないか、とまとめてみた。(P.5)
これ以上の詳細は本書をお読みいただくとして、当面私が関わっている「俳句」に直接関係が深いであろう部分として「本歌取り」の章を紹介したい。(第Ⅰ部第5章)
「本歌取り」は、剽窃・類想句の問題とからんで「俳句」でもよく話題にあがることが多い。字数の制限が厳しい「俳句」では「枕詞」「序詞」に比べてなじみ深い「レトリック」であろう。
まず、著者は本歌取りの定義として、大づかみに 
① 過去の和歌と同じ表現を用いて新しい歌を詠むこと
という定義を提案する。しかしこの定義では「(伝統を重んじる)すべての和歌が当てはまってしまいかねない」。従って次に、
② ある特定の和歌の表現をふまえて新しい歌を詠むこと
という定義が提案される。しかしこれでも「作者が歌を作るときに参考にした、という本歌取りより低いレベルをも含んでしまう」。逆に言えば、「本歌取りは、作者が参考にすることにとどまらない」もう一歩踏み込んだ表現技法だ、ということになる。そこで著者は、
③ある特定の古歌の表現をふまえたことを読者に明示し、なおかつ新しさが感じ取られるように詠むこと
という第三の定義を提案する。
肝要なのは、古歌と新しさが、同時にはっきりと読者に認識されることだからである。
著者によれば、「本歌取り」の、古歌(本歌)と新作とが響きあい、新しい表現によって古歌そのものも甦らせるような関係は、本質的に「贈答歌」に通じるという。つまり古歌(本歌)への返歌のような形で「本歌そのものにも輝きをあたえる」ことが「本歌取り」の手法であり、そこまでいって「詞も心も取る」「本歌取り」といえるのだ。

さて、「俳句」で議論になりがちな「本歌取り」の議論は、ここまで考えて議論されているだろうか。せいぜい、①か、②までではないだろうか。また、「俳句」にとって、かつて平安貴族たちの「本歌取り」の対象となったような「読者に明示された古歌」がそれほど多くあるかどうか、ということも切実な問題である。たとえば、よく知られた
  鐘つけば銀杏散るなり建長寺  漱石
  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  子規
なども、「詞を盗む」手法ではあっても「本歌取り」とはいえないだろう。ちなみに定家は『詠歌大概』において、次のような本歌取りの原則を定めているそうだ。(P.120)
① 最低七、八十年以内の人の歌句は、一句たりとも取ってはならない
② 古人の歌は取ってもよいが、五句中三句取ってはならない。二句プラス三、四字までなら許される
③ 本歌と同じ主題にすると新鮮味がなくなる。四季の歌を恋や雑の歌に変えるなどすると、非難されない
ちなみに本書、第二章では「行為としての和歌」として中世で「和歌が詠まれる場」についての解説となっている。これも興味深い内容なので、おすすめです。

※ 同日22:00、誤植訂正。
 

2009年10月7日水曜日

読む人のこと


ブログってセラピーみたいなものでしょ?自分話を聞いて欲しい、という。
私ならプロのセラピーに聞いてもらうわ(笑)

キャメロン・ディアス 「TOKYOニュースREMIX <新>「ブログ社会」」 NHK総合 10/6放送分 大意要約


至言である。

セラピーにかける手間と金があって、しかもほっといても始終注目されている一流ハリウッド女優なら、(少なくとも日本社会で流行しているような)ブログは必要ないのだろう。
同番組に、ブロガー芸能人代表で出演していた矢口真里(元モ)が、ブログをすすめる言葉として言い放った「仕事が増えます!」発言も、併せて賞翫したい。

ブログに限らず、ネットで発言すると言うことはどういうことなのか、ということ。
なぜかブログというのはきわめて個人的なメディアだと思われている節があるが、ブログというのは特に規制を設けないかぎり、世界中に向けて発信されているのだ。日本の一般人のブログをチェックし回っているアメリカ人や中国人は少ないかもしれないが、日本人口一億数千万に公開されていると思っただけでも相当である。購買層が特定されるような雑誌や同人誌にむけて書くのとは、訳が違う。

以前、ある文芸批評家がブログ上で、ミクシィで文章を公開している人たちが「テレビに出ている人間のつもり」で発言に気を遣っている、と冷笑交じりに指摘していた。
ミクシィのような参加型コミュニティなら、そこまで気を遣うこともないと思うが、たとえばブログというのは上記のように圧倒的な多数にむけて公開されているのであり、あまり自分がこだわっていないことに「テレビなみに」気をつけて発言するのは、悪いことではないのではないか。もちろん、マスメディアの規制にとらわれず、自分が主張したいことを自由に主張できるのがネットのよさなのではあろうが、だからといって公開の場で、自宅や居酒屋のように放言が許されるわけではないと思う。

*

と、のっけから当たり前の公衆道徳を復習してしまったけど、今回の主眼はそんなことではなくて、とても興味深い、次のような発言を紹介したかったのである。
掲載元は、朝日新聞夕刊関西版10月7日掲載のエッセイ「私の収穫」。
全国版なのかどうか知らないが、この欄は著名な文化人が全四回で短いエッセイを連載している。これまで、中沢新一氏、岡井隆氏、辻惟雄氏、などと続いて、先日からは長谷川櫂氏が登場した。
その、第一回の表題が、「俳句はなぜ短いか」で、当然、非常に興味を持って読み始めたのである。
そして、……茫然とした。

長谷川氏は、「俳句は十七音しかない、世界でいちばん短い定型詩である」と、よく聞かれるフレーズで語りはじめ、「この俳句が、中国やヨーロッパやアメリカではなく、なぜ日本で生まれたのか」と自問する。
そして、『徒然草』の著名な、「家の作りやうは、夏をむねとすべし」(第五十五段)を引用し、

日本の夏はただ暑いだけでなく、蒸し暑い。そんな国で多くの言葉を使っていたのでは暑苦しい。そこで言葉を最小限に切りつめた俳句が誕生した。俳句が日本で生まれたのは蒸し暑い夏のおかげということになる。

と結論づけるのである。長谷川氏のエッセイは、以下のようにまとめられる。

建築にしてもデザインにしても日本文化はシンプルであるといわれる。では、なぜシンプルなのかとなると、日本人はシンプルが隙なのだという理由にもならない理由で片付けられてきた。/ このシンプルな文化もまた日本の夏の賜物だろう。あまりに蒸し暑いと、ごちゃごちゃしたものは煩わしくてやりきれない。そこで日本人はすっきりしいた生活や文化を編み出してきた。/ 日本の夏は蒸し暑くて耐え難いが、だからこそ日本文化の生みの母でもある。その一つが、俳句。わかってみると、いたって単純明快な話である。

ちなみに引用部分に関しては、中略していない。

なんというか、実に超論理であって……(「わかってみると」あたりが、特に凄い)……、度肝を抜かれた。

現代を代表する(と目される)俳句作家で評論家でもある長谷川櫂氏が、エッセイの読者層をどのように意識されたのか、私には知るすべもないが、いくら購買者が減っているとはいえ大手新聞掲載のコラムである。長谷川氏の、現在の公式見解ととって、相違あるまい。

今後、エッセイの行方が気になるところでは、ある。

*

読者層、ということでふと思いついて、いま俳句を特集している『サライ』のバックナンバーを調べてみた。
 →
http://serai.jp/

ざっと見た結果なので見落としたかも知れないが、どうも『サライ』が「俳句」を特集したのは今回が初めてのようだ。(2008年9月号「奥の細道」特集はあり)
俳句読者の拡充、ということを考えると、現実的には、『サライ』や『和楽』読者あたり(日本文化に興味があってゆとりのある中高年男女)が一番のターゲットになるのだろう。
あとは、以前ちょっと触れたように『文藝』や、『ユリイカ』読者あたりだろうか。川上弘美は両誌ともに特集されたことがあるが、知る限りでは俳人の特集はまだない。
『ユリイカ』の特集で摂津幸彦や加藤郁乎、あるいは夏石番矢など、是非読んでみたいものだ。

いや、もちろん、『BRUTUS』が俳句特集を組む日が来ても、全然あり、ていうか歓迎、なんですが、そうしたら一度も手に取ったことのない『BRUTUS』を手に取らなくてはならなくなる。 その場合誰がフューチャーされているかが問題なのだが……今のところ、候補は思いつかない。

   

2009年9月28日月曜日

佐藤さんとか山口くんとか


各地で話題の 「船団」シンポジウム・レポートの作者、久留島元こと曾呂利です。
かのシンポジウムで啓発された問題点はたくさんあるのだけど、それは今後自分自身で
活かすためにあのレポートでは出していないのですよ、などなど大言壮語。


閑話休題。

こちらは本当に各方面で話題の、「サライ」俳句特集。
未読の方はとりあえずAmazonでも御覧になって下さい。
 →http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B002NRA3AK/mryaya-22/ref=nosim/

注目はなんと言っても鼎談。金子兜太×小沢昭一×佐藤文香という組み合わせ。
89歳×80歳×24歳の対談、もはや妖怪的な存在感を放つ二人に対して24歳がまったく臆していないというのは、誌面で見ているだけで壮快である。内容は、柳句会の話とか、一茶の話とか、うんこの話とか。 読んでいて、佐藤文香は本当に俳句が好きなんだな、ということがよくわかる。俳句の未来は、もしかしたら明るいかも知れない。
古今亭志ん朝師匠の「三枚起請」CDも付いています。

*

で、こちらはまだ読んでませんが、「俳句四季」10月号、謎の「丑年」特集。
なぜ10月にこの特集なのか、真意は読めませんが、どんな顔ぶれが取り上げられているのかは気にならないことはない。佐藤文香blog、「B.U.819」でも紹介されています。
 →http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-426.html
これが今後続いて、干支の特色が出れば面白いですけどね。『丑年生まれ俳人の取扱説明書』とか。
佐藤文香、山口優夢、高遠朱音、とこう並ぶと豪華ですね。名前もみんな素敵ですね。
あ、ちなみに俺も1985年生まれですよ。

*

で、もひとつ他人の告知。
すでにチラホラ話題になっていますが、「今世紀最初の若手俳人アンソロジー」が、今年中に発刊するようです。
 →―俳句空間―豈weekly: 新撰21告知

編者の一人、高山氏によれば、

一九八〇年代から九〇年代初頭にかけては、新人発掘のためのさまざまなシリーズ出版やアンソロジーの刊行があいつぎましたが、こうした企画はもう十五、六年にわたって途絶えており、それが俳句界の沈滞ムードの一因となってきました。
という現状に対して行われた企画だとのこと。
コンセプトとしては『現代俳句ニューウェイブ』(立風書房、1990)あたりを意識しているようで、作品と作家小論がセットになっている。
確かに『現代俳句100人20句』(邑書林、2001)など、若手を視野に入れた撰集はあるが、若手だけを取り上げたアンソロジーは久しぶりのようだ。

さて、今回の『新撰21』。
まず、関西メンバーが圧倒的に少ない。というよりも東京に偏った顔ぶれ、と見えてしまうのは、お約束ではあるが、残念なことである。先行する『ニューウェイブ』で取り上げられているのはわずか8人なのであまり感じないが、21人集めると、やはり「誰が選ばれたか」と同時に、「誰が抜けているか」という見方になるのは仕方ないだろう。

とはいいながら、高柳克弘氏、神野紗希氏、佐藤文香氏、とこのラインナップは誰もが納得のせざるをえない。 加えて、私が勝手に盟友だと思っている山口優夢とか、クソ生意気な後輩でありますとか、俳句甲子園やTHWCなどで馴染みの名前が、作品・解説で名前を揃えているのは圧巻。江渡華子は、東京進出以後の作品を見たかったところだけど、「神野紗希論」というのも興味深い。冨田拓也氏、外山一機氏、北大路翼氏など、これまで縁が薄く作品をまとめて読む機会がなかった方々の作品も楽しみだし、相子智恵氏、鴇田智哉氏といったすでに名の通った方々と並べて読めるのも嬉しいではないか。
これは買わなきゃいかんなー、でも結構高くなりそうだなー。 誰か著者割引してくれー。


すでに編者の高山氏が書いていたと思うが (と思って読み返したが当該記事が見付けられなかった、どこで誰の記事を読んだのだろう?)、今回の撰集に対して、「○○が入っていない」「△△が入るのはおかしい」的な議論はきわめて非建設的である。
なにもこの『新撰21』を絶対視する必要はないのだ。
この企画が気に入らなければ、また新しいアンソロジーを期待すればいいだけのこと。


というのが、建前だが、まぁ、悔しくないと言えば、嘘になる。

年末には『新撰21』関連のイベントが行われるそうだ。
シンポジウムだけでも参加したいが、わざわざ東京へ行くなら懇親会の大忘年会にも出て、会場の隅で一人ルサンチマンのつぶやきを地鳴りの如く轟かせてみたい気がする。
一二月か。どうかなー。
 参考:http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-427.html

ナンにしても、佐藤さんと山口くん、大活躍である。


※ 確認したところ、「新撰21」関連のシンポジウム・懇親会はいずれも定員があるために、事前に
要予約、だそうです。執筆者関係だけでも結構な人数ですので、早めに申し込まないといけない模様。
詳細は主催側に問い合わせるようにしてください。

 
※ 週刊俳句で新しく告示が出ていました。 →週刊俳句 Haiku Weekly: お知らせ 新撰21竟宴
 これによれば、シンポジウム参加だけなら予約は必要ないようですね。