2011年12月25日日曜日

男性俳句


spica特集の「男性俳句」の感想をまとめようとしたが、どうもうまくいかない。
さすがに年越しして引きずるのもどうか、と思うのでとりあえずメモ書き風に感想を書き付けておく。




内容は各所で紹介されているが、ざっとまとめておく。
まず本書は、神野紗希、江渡華子、野口る理、の三人によるユニットspicaの提供するもので、ウェブspicaの「書籍版」ということになる。
特集「男性俳句」として座談会2本、評論が4本エッセイ1本のほか、3人の作品や、「ふたりの鈴木」と題した鈴木しづ子、鈴木真砂女に関する文章(江渡、村越)、今田宗男氏(真砂女の孫)へのインタビュー、そのほかウェブ版からの転載記事など盛りだくさんの内容である。第1号、とあるから続刊もあるのだろう。

特集タイトルをはじめ聞いたときに咄嗟に想起したのは上野千鶴子の『男流文学論』(小倉千加子・富岡多惠子との共著、ちくま文庫で読める)で、正直なところ、一昔前のジェンダー論の再来か、と身構えてしまった。

もちろん実際にはそう単純なものではなかったのだが、結論から言うと、なぜあえて「男性俳句」というキーワードを打ち出したのか、私にはよくわからないままであった。



座談会1本目は、榮猿丸、関悦史、鴇田智哉、という実力派男性3人(SSTというユニットでも活動)をspica3人が迎えるもの。

座談会冒頭、もともと俳句は男性中心であったが現在では女性の方が積極的である、というよく聞く話題が展開され、「結社レベルでは、むしろ男性の方がマイナーな存在」「価値観は変わってないんだけど、状況は変わってる」(いずれも榮)という現状が確認されている。
そこで関悦史氏から『男流文学論』に言及があり、



 「男性俳句」という言葉自体が、ルサンチマンを持っているような。


と指摘され、結局「反語的」なものにすぎない、と指摘されている。

つまり、「女性俳句」というキーワードが無効化しつつある、というごく当たり前の現状認識があり、そのなかで反語的な「男性俳句」というキーワードを打ち出す違和感を、座談会出席者も覚えているのである。
特集全体に対する違和感は、ここに起因する。
カウンターは相手がいるから成立するのであり、何もないところにカウンターを用意しても何も起きないのは自明である。


このあと座談会は、



神野 こうして喋っていると、性別で語る限界を感じながら性別で語るというのは、不思議な感覚ですね。
野口 ……「そういう風に読みたい」っていう、読者の希望が関わってくるのかな、と思いました。その人が女性に求めるもの、男性に求めるものが現れてくるのかな。

と、読者論的な発展性をみせたところで終了に向かってしまい、


神野 「女性俳句」は、過去のそれとは違うものになっていくと思いますが、人々が俳句を読むときにストーリーや意味を求める心理は、これからもきっと変わらない。


という神野の総括があり、「女性俳句」も、俳句に物語性を取りこむパターンの一種にすぎない、と定義される。それをふまえて、


 今、物語という点では、正社員・フリーター俳句とか、そういうほうが女性は行くよりも美ビットかも知れない。……むしろ、B型九州出身俳句とか。O型の俳句は大雑把です、とか。
野口 結局、つまりは、カテゴライズはあんまり意味のないことだってことに収斂されてきちゃう。
神野 「女性俳句」もジャンルのひとつになるくらい、時代が変わったと言うことですね。みなさん、今日はどうもありがとうございました。

と締められてしまう。
これには、ちょっと待って、とツッコミたくなる。
今一番ホットなこのメンバー集めて座談会して、見えたのはそれだけだったの?そりゃない。
このメンバーなら、ここからスタート、でよかったでしょう?

もちろん座談会というものは面白くなりかけたところで終わるのが常であり、単純に時間の制約もあっただろうと思う。

しかし。
「時代が変わった」「カテゴライズには意味がない」なんて、冒頭からみんなわかってたことやないですか。



座談会のなかで興味深かったのは、男性俳句を選べ、という話題のなかで、榮猿丸氏が



 一滴の我一瀑を落ちにけり  相子智恵


をあげ、若手では唯一リアルな大景を詠める「男性的」な作者だと評したことである。

そういえば「関西俳句なう」では徳本和俊が毎週若手の中から「男的一句」を選ぶのに四苦八苦しており、「いまの若手は男性的じゃない!」と愚痴っているのをよく聞いている。
どうも原因は徳本の怠慢だけではないのかも知れず、「男性俳句」が機能しない、と言う事実を現代作家論として注目してよいのではないか。



読み直していくとほかにもいろいろ興味深い指摘はあったのだが、それでも結局の「不満」は残ったままだった。ひとまずそのことのみ、記録しておく。

ところで「男性俳句」という用語は比較的単純な反語(造語)なので、どこかの女性俳句特集で誰かが提唱していないだろうか、と思うのだが、まだ調べきれていない。
こちらは発見次第、報告することにしたい。



(未完)


 

2011年12月22日木曜日

雑談。

 
たとえ話として出すのも恐縮だが、御中虫さんの句集タイトルにもなった代表句のひとつ、

  おまへの倫理崩すためなら何度(なんぼ)でも車椅子奪ふぜ

に対して、過激で悪い意図があるように見える、とか、誤解を招くのではないか、というコメントを目にしたことがある。(まあ当然であろう)
おそらく世の中にはもっと批判的、排除的な意志をもって評する人もあろうと思うが、その時見たコメントはごく丁重なもので、ただ過激な表現で驚いた、といった至ってふつうの感想から発したものと思われた。(今もネット上で見ることができる)

批評でも鑑賞でもない単なるコメントなので別にとりあげる必要もないのだが、気になったのはその評のなかに、「本人が車椅子使用者ならば問題はない」云々の意見が見られたからである。

気分は、わかりますよ。
でもね。
ちゃいますやん、と思う。

本人が車椅子使用者であろうが、車椅子使用者の親族であろうが、逆に車椅子根絶主義者であろうが、作者が使用者ならばなぜ「問題がない」のであろうか。
本当に表現として人を傷つけ、発表することに大きな問題がある、と思うのであれば、それは使用者の詠であっても同じであろう。作者自身が使用者だからと言って、あるいは使用者に近い立場だからと言って、それで使用者全体を代表できるわけもない。
そもそも「車椅子使用者の詠」などと普遍化されてしまっては、作者の個性すら見ていないことになり、作者にも迷惑千万だろう。

掲句はもちろん「倫理崩す」句、過激で暴力的であることをウリにした句なので、生理的、心理的に好きな句ではない、あるいははっきり嫌いな句である、という意見も、当然ありうるだろう。俳句の佳さを、微温的なほほえましさ、心地よさ、にのみ求める人々から好まれないからといって、それは掲句の傷にはならない。

それはそれで、いいではないか。

たとえば句会に出た句ならイヤでも目につくとか、言及せざるをえないこともある。
あるいは評論家を志すのであれば、感情論ではなくその句のよい面、わるい面を評する必要もある。
でも、ただ俳句を楽しむだけなら、嫌いな句は素通りしておけばよろしかろう、と思う。
批評として書かれるならば相応の建設性もあるが、そもそも句を「おとしめる」ための批評というものに存在価値があるのかどうか、ちょっと疑問である。



話はかわるが、今年の紅白に出場する歌手のなかに、「猪苗代湖ズ」というバンドがある。
クリエーターの箭内道彦氏やサンボマスターの山口氏ら、福島県出身者で結成されたバンドで、今年の大震災をうけて「I love you & I need you ふくしま」を唄う姿がテレビでもよく取りあげられていた。
正直言ってこの歌、歌詞として新しみは感じられない。
しかしまぁ、この曲調で連呼される「I love you & I need you ふくしま」のメッセージはストレートでそれなりに感動的であり、聞いて元気になれる、という人も多いだろう。それはそれで、よいではないか、とも思うのである。

そして、J-POPには、これはこれでよい日常的楽しみを受け止める許容量があるのに対して、俳句や短歌、現代詩にそれがないとすれば、それは、現状商業ベースに乗っていないから、というのではなく、案外表現を貧しくしてしまうのではないか、とも思うのである。

もちろん、表現として新領域を開拓する、そういう表現者としての在り方は貴い。
また、読者としても、つねにそうした新しい表現に出会う期待を持っている。
しかし、一方でやはり、さまざまなレベルでの「読み方」「楽しみ方」を許容できない詩型に、果たして未来はあるのか、とも思うのである。


2011年12月14日水曜日

おひさしぶりです。。。

 
うう、いつの間にか前の記事から一ヶ月もあいてしまいました。。。

一度怠け癖がついてしまうとなかなか治らず、オフラインの仕事がいろいろ立て込んだせいもあって、書きたいことはあってもほったらかしに。それでも誰にも迷惑をかけないし誰にも怒られないというのが個人blogのよいところで、おかげさまで次第に無更新記録ばかりを絶賛更新中で、一周回って逆になんか楽しくなってきたところですが、さすがにこれでは公開の意味がありませんので、ちょっと心入れ替えます。

先日は「船団」の企画で、「俳句と動詞」というシンポジウムに参加。
国語学の金田一秀穂氏、森山卓郎氏に、坪内稔典氏、塩見恵介氏の四人がパネリストとなって「俳句と動詞」についてたっぷり話し合った。その経過はまた「船団」誌上で発表されるだろうから、詳細には触れません。
そのあとは「船団」忘年会。クラウンが登場したりして、大いに盛り上がりました。




さて、以下、記事予定表。



まず、「spica本」の特集「男性俳句」批評。
こちらはspica三姉妹から送っていただきました。本自体には私の句も掲載いただいているのですが、特集内容に関してはいろいろ言いたいことも。
褒め言葉は直接彼女たちに言えばいいので、こちらでは意識して厳しめに書きます。

彼女たちとは個人的には仲の良い友人(のつもり)ですし、尊敬すべき先輩・句友ですが、たぶん目指している俳句の方向性は違うでしょうし、批評の部分で馴れ合っててもしょうがない、と思うので、そこはまぁ容赦なく。



それから、不定期に続けている「若手批評家見取り図」。これと、これです。
明確ではありませんが、自分の中ではシリーズなんです、実は。
これまでとりあげたのは、関悦史氏、高柳克弘氏、青木亮人氏、外山一機氏、今泉康弘氏、富田拓也氏。
関氏、高柳氏は時評という括りで、青木氏、外山氏、今泉氏、富田氏は「俳句史の見直し」という括りで、まとめてみた。

私自身は批評家としてはまことに中途半端で、俳句に対する新見もないし、主張したい方向もまだ明確ではない。ただ発表される俳句の批評を見ていると、どうも玉石混淆であり、多くは感情的・情緒的に書いているだけで非建設的(に見える)。
批評の結論に賛成/反対は措いておいて、批評の手際というか力というか、論じるに足る批評家の顔ぶれ、注目すべき評論の方向性を把握する、というのは、自他のために損はならないだろう、と。
とりあげているのは先輩ばかりで非常に傲慢な企画ですが、実際には自分が批評を続けていくとしたら、この人たちのようなレベルで批評したい、という目標のようなもんですので、どうぞお気を悪くしないでいただきたい。
(とりあげてない方は気を悪くしていただいてもいいけれど、そこはまぁ所詮、私ひとりの好みですから)



そして、そういえばバックストロークの終刊。
縁あってこの一年は川柳人と多く知り合うことができました。小池さんによれば、



「バックストローク」は結社というより、全国に点在する川柳人のネットワークのようなものであった。雑誌は終刊したが、ネットワークは残っていると私は受け止めている。



ということ。私自身はまだ川柳のことはまったくわかっていませんが、バックストローク終刊に間に合った、というのも何かの機縁だと思うことにしています。この「よく似たお隣さん」への関心は継続していきたいと考えています。



ややこしい問題なのであまり触れたくはないのだが、見ていてもやもやするのが、震災と俳句とをめぐる一連の議論。

なぜもやもやするのか。
考えてみると、数週間前に読んだ坪内さんの文章のほうが、個人的にはすっきりしたからだろう。以下、2011年11月24日の「ねんてんの今日の一句」より。
自転する地球の上の冬銀河 尾池和夫」をとりあげながら、小野十三郎賞授賞式でのシンポジウムでの詩人たちの発言「3.11以後で世界が変わった、言葉も変わった」という論調に対して、坪内さんは批判的である。


彼らに限らず、3・11で日常が一変したという人が目立つが、そういう人って信用できないのではないか。そういう論調は淡路・阪神大震災の時も、太平洋戦争の開戦や敗戦時にもあったが、実際は変わらないものが多かった。むしろ、変わらない日常に立って冷静に大震災や原発事故を見つめるべきだ。そのように私は主張した。
あれ、これってどこかで見たことある……?
どこか、高浜虚子「戦争によって俳句は何も変わらなかった」を彷彿させますね。
実際には、虚子と坪内さんの俳句は全く印象が違うわけですが、こういう地平から物事を見ている。ただ、そこから坪内さんは「詩的」な飛躍を求めるのに対し、虚子にはそれがない。

ああ、これ、麒麟さんの俳句読みともつながってくるなぁ。



ほかにもいくつかあるんですが、明確に書きそうなのは、そんなところです。
予定表を発表して自分を鼓舞/追いつめてみる作戦。どうなるでしょうか。







2011年11月6日日曜日

ニュース

 
11月3日、例年どおり第8回鬼貫青春俳句大賞の公開選考会が行われ、大賞に見事、

山本たくや「タロウとシンペイ」

が選ばれました!
山本たくや氏は「関西俳句なう」などでもおなじみ、船団期待の若手です。
心よりおめでとうございます!


受賞のコメントでは、


僕は自分でいうのもなんですがマジメな生徒で、普段目立つことがないのですが、俳句では思い切り無茶して目立ちたい。
と語った山タク。
たしかに色々挑戦的な作家で、マンガ的俳句にも最も積極的に取り組んでいる作家の一人でもある。
まだ公式ページに告知がないので、受賞作に関する詳細は後日。


優秀賞には、
 二木千里 「毛づくろい」
 林田麻裕 「花笑むよ」
の2作品、今年新設の、FM伊丹開局15周年記念賞には、
 仮屋賢一 「交響曲第一番」
が決定!
仮屋くんは洛南出身の俳句甲子園組、二木さんは山タクと同じ仏教大学坪内ゼミ出身、林田さんも「船団」火箱さんの寺子屋出身生で、非常に近しいメンバーに受賞を独占した。

じつは最近関西では上田拓史、黒岩徳将を中心とする「ふらここ」メンバーが非常に精力的に活動しており、多くのメンバーはこの関係で知り合いになって、お互い研鑽しあっているのである。その活動の一端は「関西俳句なう」などでも知られるところだ。

特に黒岩くんの活動ぶりはめざましく、京阪神の句会の至る所に積極的に出没している。
仮屋くんは黒岩くんの高校の後輩、山タク、二木さんも黒岩くんから誘われて「ふらここ」に加わった。今、関西で一番活動的な若手が、黒岩くんなのである。
関西の若手のなかにも少しずつ波が起き始めているのであり、その中心に黒岩くんたち「ふらここ」がいる。力強い後輩たちの活動は、頼もしくもあり、脅威でもある。


ちなみに、そんな黒岩くんが中心となって、11月23日(祝日/水)に京都大学でイベントが開かれるらしい。

16時~、京都大学教育学部棟で、初心者向けの句会ライブを実践、とのこと。

学祭の一環で教育学部限定のイベントだということだが一般参加も構わないらしい。
残念ながら私は参加できそうにないが、都合の合う方は是非。




当日夜は、川柳の樋口由紀子さんと、関西に来訪されていた西村麒麟さんに合流。
樋口さんと麒麟さんはお昼から通天閣周辺で飲み歩いてこられたそうで、合流した頃にはすでにほろ酔い。そこから更に三時間以上、呑んで話して話して呑んで。川柳の話、俳句の話。おもしろい話からこわい話まで、いろんな話をしたはずなのだが、お酒にまぎれて何がなにやら。
いや、でもとても楽しかったです!また是非ご一緒しましょう!!

そこで聞いたちょっとびっくりのお知らせ。
「川柳バックストローク」が、次号を最後に終刊なんだそうで。
http://8418.teacup.com/akuru/bbs


うーむ、知りませんでした。
これから川柳の勉強をしていきたいと思っていたところなので、指針のひとつがなくなったのはちょっと痛いなー。

※11/9追記 この日のグダグダ模様については「きりんのへや」六大家って知ってっか?川柳の話だよ 「第6回 待ってましたの麻生路郎3」で語られております、ご覧下さい(^^;。




あ、スピカの「本」、もいただきました。
こちらもざっと一読しましたが、感想は後日。

 

2011年10月23日日曜日

外とか内とか

 
さて、それほど気になる言葉だっただろうか?

週刊俳句 Haiku Weekly: 〔週刊俳句時評47〕ユリイカ「現代俳句の新しい波」ふたつの印象…上田信治

「詩客」 七曜詩歌ラビリンス4

トゥゲッター 千野帽子氏の「帽子の中」

週刊俳句 Haiku Weekly: 〔週刊俳句時評49〕外気にさらされるということ…西丘伊吹

まぁ、実際に反応しているのは「俳句世間」の人々でも「俳句界隈」の人々でもなく、「週刊俳句界隈」の人々、といったところが現状だろうが、「外」という看板をさげて挑発的に風穴を開けようとする千野氏の活動はいたってまともなものであり、外と言っても実は中だ、などと自明のことをあげつらってもなんの意味もない。千野氏だってそんなことは百も承知のうえで使っているのだろうから。

もちろん千野氏の「俳句史」は氏個人の見解にもとづく「誤解」や、かなり一方的な評言が目立つ。
しかし、千野氏の文章は正確さよりもまさに「速さ」をこそ楽しむべきもの、という気がする。
それは作者自身がそのように規定し、断っているのだから、それ以上求めるのはナイモノネダリにしかなるまい。求める方向が違いすぎる。
千野氏は、とりあえず発信しかったのだろうし、事実、そのようにしている。

むしろ、千野氏のような立場からの紹介に対して、本当に過敏な反応を示しているのだとしたら、それこそ「俳句界」のナイーブすぎる、潔癖主義というか無菌主義というか内向き志向を露わにしているというべきだろう。
「外」からの視点は、多かれ少なかれ「誤解」や「幻想」に満ちていて当たり前であり、「外」に対して「誤解」や「幻想」を振りまいてお客を誘致しようというのも、どこにでもある話。
それでもその「誤解」と「幻想」をもとに「お客」が来てにぎわえば、その中に定住者が出てきたり、理解者が出てきたり、なかには原住民よりふかく理解してまた「外」へ紹介してくれる人が出てきたりして、いつの間にか「中」の風景も混じり合い、変わっていく。
よいではないか。

少なくとも私は自分が「俳句」に関係している自覚はあっても、自分の好きな「俳句」以外にも膨大で多種多様な「俳句」があることを知っている。
誰かが決めつける「俳句」に対して、別ルートを示すことはできても、公然とある俳句を否定する根拠を持っていない。
それは「俳句に似たもの」論争に対しても、そのように弁ずるしかない。

ツイッターその他を含めてフォローすれば、千野氏の好きな「俳句」は、基本的にオープンな「句会」形式で楽しむことが出来るものであり、またキーワードとして提示される「一発芸」的な、「速い」作品、ということになる。
(彌榮浩樹氏が指摘したキーワード「一挙性」「露呈性」などが想起される)
特に「句会」を「俳句」の重要要素とみるところなどは私自身の嗜好にも重なる。(*)
一方でそれ以外の俳句を否定的に述べる根拠を、今のところ私は持っていないのであり、おそらく私が「俳句」の歴史を論じるとすれば、やはり「関係者」らしい、総花的なものにならざるをえないだろう。


いろいろ刺激をもたらしてくれる、と言う意味で個人的に千野氏の文章は読み物として楽しめたし、ほかの記事にも見所は多かった。
結果、おおかたの反応としては、「俳句もようやくサブカルチャーになりましたか」と言って、自分の気に入った記事を丹念に読み返すのがよろしかろうと思う。
少なくとも、最近の俳句専門誌の特集よりも、はるかに広く、「文芸」一般に開かれた特集ではあっただろう。



ところで、先日いただいた句集のなかにもこんな表現。



俳句との関わりにおいて、そのケッペキさは、インサイダーにならないこととして、表現されている。本人からしたら当たり前以前のことだろうけれど、俳壇の人を一切ありがたらないし、うっかり俳人と呼ばれた一生の不覚と思うような人だ。

これは西原天気さんの句集『けむり』(西田書店、2011)に寄せられた上田信治氏の栞文。天気氏の人柄を評した部分で、ここにも「インサイダー(中の人)」という言葉が登場する。
この部分だけ引くのはフェアではないだろうから、もう少し引いておく。



インサイダーにならないというのは、その俳句の書きようにも言えることで、天気さんは、俳句プロパーの人の気に入るように書くということをしない。かといって、反○○というわけでもなく、つまり、俳句らしさの枠が、まったく出入り自由なものとして扱われている。



そういえば、BS大会では樋口由紀子さんが「内」「外」という語を使っておられたな、と思い出す。
「川柳時評」川柳が文芸になるとき


このときも「外」はともかく、「内」とはどこか、と言う問題はすこし議論になっていたかと記憶する。

「外へ広がっていく」「開いていく」みたいなキャッチフレーズは、私自身も使ってしまうことがあるが、こうも取りざたされるとその曖昧さが目に付いてくる。
少なくとも一度でも作品を他人の眼に触れる場で発表した人は、「中」ではないにせよ、「外」の人ではないだろう、とか、思うのだが。





* このあいだ神野さん、江渡さんにお目にかかったときにも話題になったが、このとき問題になるのは「句会」を離れて掲載される作品をどう読むか、ということである。俳句が「句会」のライブ感に支えられ、「句会をするのは飲み会のため」という千野氏の作品を「ユリイカ」という誌面で見る我々読者は、「飲み会」の楽しみがないわけであり、これをどう読むかは問題である。


2011年10月10日月曜日

ふーん


週刊俳句 Haiku Weekly: 〔週刊俳句時評47〕ユリイカ「現代俳句の新しい波」ふたつの印象…上田信治




印象2
千野さんは、正統的な文学とか芸術のジャッジにさらされない、南洋の楽園のような場所を求めているのかもしれない────
と思った。

いや、そこはふつうに入植地って言えばいいのかな。

「入植地」とはたしかに言い得て妙。
日本文化の一部だけをとりあげて「非西洋」の部分を強調し、「脱近代」につなげてしまう、結局それが「近代」≒「西洋」から見た特殊性にすぎないのだと気付かない、今日もどこかでだれかが主張するゆがんだ日本文化論。

千野さんの議論が、「文学」帝国から見た「外野意見」というポーズを強調しすぎて、そんな空気を漂わせているという指摘。うん、たしかに言われてみれば。

要するに、裏返しの(好意的な)「第二芸術論」ということ、ですかね。

そこで考えてみる。なぜ、私は一読で気付かなかったのだろうか。
あるいはこう考える。なぜ、私は一読で不快感を抱かなかったのだろうか。


「外の人」の過剰なアピールは、「拒絶」というより「エクスキューズ」だと受け取った。
入り口でうろうろしているから深層までは踏み込みません、でも入り口の面白さはよく知っていますよ、という。
そのあたりが、「書評家」ぽい、と思った理由ではなかろうか。
あくまで紹介。深層ふかく切り込む探求者ではなく、論考をひねり出す専門家でもない。
俳句の入り口は、私はどんなに低く宣伝してもらっても構わないと思っている。
楽器の一つも扱えず小学校から音楽や芸術は赤点スレスレだった私にとって、俳句はリコーダーより簡単であり、絵を描くよりも準備がいらず、書道よりも容易に「それっぽく」書ける。





要するにたぶん、私も俳句を「第二芸術」だと思っているのだ。
俳句は「遊び」だと思うし、間違いなく「俳句は誰にでも書ける」と思っている。

ただし、それだけでもないのである。
ほかの、一般人が「遊び」でしかないもので、凄い境地に切り込んでしまう、それはつまり「感動」とか「驚異」とか、あるいは「共感」でもいいかもしれないが、そういうところまで至ってしまうことはありうるのであって、間違いなく「俳句」にはその力がある。
もっともそういうことは「遊び」一般に言えるだろうことで、ことさら「俳句」が文学(文芸)かどうか、とは関係がないと思う。

「誰にでも書ける」とアピールされて、入り口がどんどん広く低くなったとしても、それはそれでいい。初心者が偶然至ってしまう面白さもあるし、生涯かけてあがいたって敵わない俳句もたくさんある。どちらも凄さをわかってくれる人が増えるなら心強い。
逆に分母が大きくなって、それで価値が揺らぐ俳句だけなら、それだけのことだ。時代に応じて、また別の俳句が評価されていくだろう。
俳句が、そういう動き続ける存在であってよい、というのは、これは「中の人」らしからぬ、ということになるのだろうか。

※追記。
要するに言いたいことは、
 俳句は誰にでも書ける。
  でも、誰にも書けなかった俳句、もある。

ということ。
これ、ごく当たり前のことですよね?

2011年10月7日金曜日

告知もろもろ

 
小西昭夫編集長の「子規新報」2巻33号(2011.09.30)に掲載していただきました。

「次代 を担う俳人たち」という欄で、懇切な記事を掲載くださっております。
小西編集長、ありがとうございます!

あ、ひとつだけ訂正。
記事のなかで私が「俳句甲子園」ボランティアスタッフとして参加、とありますが、私は一般観客でした。
まぁ出身生でスタッフにも顔なじみが多いので、勘違いされることは多いです。
たいしたことではありませんが、内情知ってる方はちょっと違和感をもつかもしれませんので、念のため。


「子規新報」購入/講読は創風社出版さんへ!




もうひとつ、告知。


朝日新聞東京版の夕刊「あるきだす言葉たち」に、拙作15句を掲載いただける予定です。
掲載は来週11日(火)です。

残念ながら関西では見られませんが、東京の方、見てくださればありがたく存じます。


ちなみにこのふたつのお仕事は、ともに松山へ遊びに行ったのが縁でうけたもの。
ひとつは池田澄子さんの講演会で、
もうひとつは松山俳句甲子園。



どちらも自分が楽しくて動いていたら、思いがけず人と行き会い、つながった。


先日、川柳BS大会で畑美樹さんが、

「川柳は動いている。特に自分が川柳を始めた時代は、川柳が自己のアイデンティティを問われ、動き続けていた時だった。そんな時代に川柳に出会ったので川柳をおもしろく感じた」

といった趣旨のことをおっしゃっていた。
ある文芸のシーンが「動く」という感覚、程度はあれその熱の最中は、どんなジャンルでもそんな感覚があったのではないか。

そして今。
俳句には、「ユリイカ」で特集されるような「新しい波」が起こりつつ、ある。