2011年5月16日月曜日

川柳句集、二題

 
「関西俳句なう」で日曜更新の「俳句な呟き」欄で、川柳句集二冊を鑑賞させていただいております。
俳句な呟き vol.20


一冊は、渡辺隆夫さんの『川柳 魚命魚辞』(邑書林、2011)。

もう一冊は、小池正博さんの『水牛の余波』(邑書林、2011)。

渡辺句集は湊さんから、小池句集はご本人から、ご恵贈いただきました。
ありがとうございました。


まだ上半期も終わっていないのに、二冊も刺激的な川柳句集が出ているわけだが、二冊ともある意味ではとても「漫画的」であるにも関わらず、やはり渡辺句集は「川柳」の性格を色濃く持っている、と感じられた。文句なく面白いのだが、笑いの質が、ちょっと俳句とは違うのだ。
それに対し、小池句集は、いわゆる先入観で読む「川柳」とも、また私の知る「俳句」とも、
すこしずつズレる面白さを持っている。「船団」的な言葉×言葉(取り合わせ)のおもしろさを、さらにもう一歩踏み込んだ、今私にとっては「漫画的」という表現しかできない類の面白さである。

「季語」という共感素材のストックに頼らず、自力で言葉を組み合わせて、無理のない、不思議な世界を造ってしまっている。それがとても愉快であった。

しかし、そういう「虚構」を立ち上げる手練の面白さから見ると、邑書林の「帯文」には、かなりの違和感を覚える。

消えてゆく言葉たちを生み続け/言葉と言葉の新しい関係を創作しながら/その言葉すらきえてゆく矛と盾/蕩尽の文芸を自覚しつつ/なおも川柳の言葉を模索してやまない/著者渾身の第一句集
と、ここでは「言葉」への自覚的な遊び心が指摘されていて、まぁ、わかるのだが、問題は背に

詩性川柳の真打登場

とあることだ。
ここにきて私は戸惑う。詩性川柳とはなにか。
たとえば手許にある『セレクション柳論』(邑書林、2009)所収の小池正博「現代川柳のアウトライン」には次のような文章がある。


一方、関西における川柳革新の中心的存在であったのが河野春三である。……川柳は彼にとってひとつの文学運動なのであった。彼は近代的自我の表現と詩性とを表裏一体のものと考えていた。川柳に「私」が導入されたとき「詩」がはじまったと春三は言ったそうだ。

またネット上では次のような文章を拾うこともできる。


昭和二十三年、一時川柳から手を引いていた春三は、ガリ版刷り、八ページほどの小冊の個人誌「私」を創刊する。
∧川柳・句と評論誌∨と銘うち、詩性川柳を標榜し、三要素を否定し、人間探求へ川柳の舵を大きく切ってゆく。それはまだたった一人のさささやかな出発に過ぎなかったが、評論誌として、川柳革新に心血を注ぐ活動に、全国から多数の好作家が結集し、やがて全国規模の革新運動に発展してゆく。


石部明「時代を捉えるー河野春三の革新」『川柳MAMO』8号
ここでいう川柳の三要素とは「うがち」「おかしみ」「軽み」であるという。
果たして小池の作品を、「おかしみ」「軽み」と無縁の、「人間探求」や「近代的自我」といった性格であらわされる「詩性川柳」ととらえていいものだろうか?


門外漢(=不勉強)であるためにこれ以上は踏み込まないが、現代俳句のバラエティを認めなければならないのと同様、現代川柳のバラエティも見ていく必要があるのだろう。そのなかで析出されていく「俳句的something」と違う、「川柳的something」があるとすれば何なのか、またそれが俳句にとってはどう写るのか。

興味深い課題である。



2011年5月14日土曜日

俳句評論inネット

 
先の連休、ふたつも詩歌サイトがオープンした。

ひとつは、自由詩・短歌・俳句の「三詩型交流企画」を標榜する、「詩歌梁山泊」による「詩客」

日めくり詩歌、三詩型それぞれの時評、それに「戦後俳句を読む」欄まであって、やたら執筆者が俳句関係に偏っているきらいはあるものの、重厚充実の布陣である。

俳句時評の担当者は特に注目。
山田耕司、外山一機、松本てふこ、冨田拓也、ということで、面識のある方もない方もいるがいずれも信頼している書き手ばかりなので、頼もしい。すでに3人までが文章をアップされており、三者三様、期待どおりの文章であった。

それぞれの個性は決して時評の枠だけに留まるものではないと思うので、これからどんな文章がアップされるのか、楽しみである。

また、高山れおな氏の「日めくり詩歌」では、同じテーマでふたつの句を並べて勝敗を判ずる、「歌合」ならぬ「句合」の形式をとっている。岸本尚毅氏の「名句合わせ鏡」、坂口昌弘氏の連載などを思い出すが、勅撰集に倣って「竟宴」を催した趣向を思い出すなら、むしろ本
当に歌合に倣う心境なのか。
いずれにしても一度に二句、違う趣向の句が読めるわけで、読者としては二度美味しい。


もうひとつは、神野紗希、江渡華子、野口る理の三人が組んだspica

同人誌とか団体とかではなく、紗希さん自身が指摘した俳句界の新潮流「ユニット」の形式である。東京ではほとんど毎週のように飲み歩いていると聞く(失礼)無敵の三人であるから、いつかはなにか出るのではないか、と思ったが、こういう形で公開された。


どんな古典も、どんな新しい潮流も、全ては読む作業から始まりました。
そして、世界では、日々、新しい俳句が作られています。
今回、読むことが好きな仲間たちで、俳句を読み、語りあう場所を作りました。
「創刊のことば」は、とてもまっすぐで、よく知る三人の、そのままの口調である。(ネット越しではお酒を交わせないのが残念であるが)
甲府へ飛んだ山口優夢がまじめくさって俳句を語っていたり、高柳克弘さんがB級映画から震災俳句について語っていたり、江渡ちゃんが酔っぱらった変な絵を提供していたり、まぁ、俳句中毒者三人がおもちゃ箱をひっくりかえして楽しんでる、というのが伝わってくるサイトである。



さて、いずれも充実のサイトなのだが、……残念ながら充実すぎてすべてを読むのはかなりしんどい。

いや、実は冗談口ばかりではなくて、はたしてこうしたサイトが、だれに、どう発信していくのか、どう「読ませて」いくつもりなのか、ということと関わる。

よく言われるように、ネット媒体は、俳句批評、俳句鑑賞について、かなりの活性化をもたらしつつある。
一般に「読む」より「詠む」ほうを重視する実戦型、稽古式俳句の風潮のなかで、俳句を「読む」ということについて、これほど広範囲に、何度も何度もくり返し、たたみかけるように言及される状況、短兵急ともいえる積み重なり方は、おそらく俳句史上でも希なものであろう。

しかし、ネットは、発信という面で見ると即時性、公開性には優れているが、議論を積み重ねる、ということについてはやはりまだ脆い。ネットという媒体が、じっくり読んで腰を据えて相手をする、というより、作業の合間に即時的に、反射神経で対応してしまう間隙を、もともと持っているのである。

その意味では、上にあるような、実直に誠実に俳句を「読む」行為が、果たして今のような形で、(慌ただしささえ感じるネットの海で)プレゼンされるべきなのかどうか、ちょっと判断に迷うところである。



そんなことを考えていたら、『群像』新人文学賞が出ていたのです。

ご存知のとおり、彌榮浩樹さんの「1%の俳句―一挙性・露呈性・写生―」が、54回群像新人文学賞評論部門に輝いたわけで、なんともめでたいことである。
受賞に関してもっとも注目すべき事は、ご本人の仰るとおり、



「俳句とは何か」を約三万字で一気に素描すること、それは、いつか誰かが行うべき作業だったはずです。しかも、<俳句について格別関心があるわけではないが機会があれば知るにやぶさかではない人たち>の眼前で。


受賞の言葉『群像』2011.06

ではないだろうか。
彌榮さんの評論の、内容については、実は私の立場からすると全面賛同できるわけではなかったり、従来の言説の言い回しを変えただけではないか、と思えるところもある。
しかし、この、俳句評論をめぐるスタンスについては、全面的に賛同したい。この地点から評論をスタートした上で、価値観や目指す方向の違いについてはあらめて議論しあえればありがたい、と思うのである。

俳句評論が、俳句を「読む」行為が、俳句専門誌にしか載らず、俳句愛好家たちにしか(それどころかそのごく一部にしか)提供されていない、ということこそ、俳句評論の一番の不幸であり、それが、かの悪名高い「第二芸術論」を現代にまで引きずってしまっている、俳句評論の未成熟をしめすものなのだ、と。


もういい加減、山本健吉からあとの、本当の「現代俳句」について、「俳句一〇〇年」後の問いを、議論するべき時期に来ているはず。

2011年5月1日日曜日

週刊俳句210号

 
週刊俳句 第210号 に、拙稿「山口誓子『方位』を読む 久留島元」を掲載いただいています。

こちら の続稿。
当分、「ろくぶんぎ」2号が出ない見こみのようなので、許可をもらって先に発表させていただきました。
あわせて、前稿をみなおし、改行を増やしてちょっと見やすくしてみました。

とりいそぎ告知のみ。
 

2011年4月27日水曜日

うーむ

 
やっぱりなんだか「改行」の調子が悪いようだったので、しばし開店休業中。
詰まりすぎているのも読みにくいですが、変にあくのも気持ち悪いですね。

あと「俳句なう」でざっくりアウトプットしているので、あまり煮詰まらなくて、こちらでは書きにくい、ということもあり、すこし間があいています。

すこし、最近は川柳の、それもバックストローク関係の川柳に触れる機会が増えてきたわけですが、そういえば「ねんてんの一句」でも川柳がとりあげられていました。

4月21日に、「街道は江戸まで続く柿若葉  渡辺隆夫」
4月22日に、「洪水が来るまで河馬の苦悩教  小池正博」
4月23日に、「雷鳴が来る春巻きを注文する  小池正博」

http://sendan.kaisya.co.jp/nenten_ikkubak.html

坪内氏は、はやい時期から川柳と俳句との交流については言及していますし、たしか『国文学』かなにかの特集でも対談があった気がします。
川柳と俳句については、そういえば櫂未知子さんにも以前、対談の記録をいただいたことがあったなぁ、と。もうだいぶ前なので手許に見あたらず、捜さないといけませんが。。。

だらだら続けていたものが、だんだんつながっていく、……と快感なんですが、まだつながる様子もなく、ようやく「集まってきた」くらいの感じ。好きなことですから、無理のない程度に、気長に実を結ぶまでやっていきたいですね。



「船団」初夏の集い@東京、の案内を貼り付けておきます。


俳句の言葉を探る
どなたでも参加できます(要・申し込み)




日 時 2011年5月28日(土)~29日(日)会 場 アルカディア市ヶ谷(私学会館)(アクセス
    (東京都千代田区九段北4-2-25 JR市ヶ谷駅より徒歩2分)    (電話:03-3261-9921)
※どなたでも(会員でなくても)参加できます(要・申し込み)。


5月28日(土) 13:00 受付開始
●13:30~15:30:
講演と質問(無料)
金田一秀穂(国語学者) ●15:45~: 吟 行(無料)
九段、神楽坂、靖国あたり
※29日の句会参加者は、懇親会受付時に吟行句2句を投句してください。
●18:30~20:30 : 懇親会 (会費:8000円)
第三回船団賞発表


5月29日(日)
●10:00~12:00 : 句 会(会費:1000円)※コメンテーター: 本村弘一・あざ蓉子・小西昭夫・火箱游歩※司会:
三宅やよい
●問い合わせ・申し込み : 船団の会※申し込みは、5月10日(消印有効)までに、下記へハガキでどうぞ。
※氏名、住所、電話、参加される行事を明記してください。〒562-0033 箕面市今宮3-6-17 船団の会 (電話:072-727-1830)


http://sendan.kaisya.co.jp/shoka11.html

関東の様子見で、中止の可能性もあるかと思っていましたが、今のところ予定続行の模様。
せっかくなので東京の「船団」以外の方とも交流する機会になればいいですね。

ただ、この日程、仏教文学会とマルかぶりなんですよね。。。。同じ東京なので都合はいいんですが、行ったり来たりすることになるかなぁ。。。

※追記。
あれ、この「改行」はうまくいってますね(汗)。
うーん、なんのこっちゃ。。。

2011年4月18日月曜日

樋口由紀子「容顔」を読む

容顔、「ようげん」と読むらしい。(辞書的には「ようがん」もあるようだ)
表紙には不気味なマネキンの女性たちの写真。 冒頭から葬儀をテーマにした句が重ねられる。
式服を山のかなたに干している

まっさきにぺちゃんこになる副葬品
読んでいくうちに、父の死別に直面していたとわかる。

道頓堀の手前で拾う父の病名 
父が逝く籠いっぱいに春野菜 
三月に追いつめられる霊柩車
肉親の死にかかわるのかどうか、作者の日常を見る視点は変である。
此岸の日常風景にもかかわらず、彼岸に近づいていくような、いや彼岸が近寄ってきているような不気味さ、危機感を漂わせるのだ。

むこうから白線引きがやって来る

つぎつぎと紅白饅頭差し出され

半身は肉買うために立っている

作者は繰り返し同じテーマを扱い続ける。
ことに「死」や「肉体」には執拗なほど丹念に向き合う。その多くは自己の肉体を起点として、内省しながらより抽象度の高い「肉体」や「死」へと意識をむける手法をとっている。
腰を据えた粘性、とでもいうのか。誠実な執拗さで彼女の作品は「肉体」を探求する。


ねばねばしているおとうとの楽器

粘性の波と抱き合うわが童話
自身を映し出す「鏡」への関心も、「肉体」への関心の余波だろうか。
鳥たちが三面鏡からいなくなる

昼の鏡魚の名前をつぎつぎ告げる

箪笥の隙間が鏡に映る祝詞か

私の調査では「鏡」を詠んだ句は八句。
「鳥」や「魚」など、鏡に映る自己から人外へ意識を飛ばすような句が特徴的である。これはさきほどあげた内省の視点とは逆に、まったく異なる世界へ意識を飛ばしていくものだ。
他の作品では「象」や「人形」などの、いわば異形への執着が見られる。しかし、あくまで自己の肉体を起点とする部分では共通している。
そしてより明確に、「わたくし」の肉体を内省して異形へ至る、という作品も散見される。

わたくしの生まれたときのホッチキス 
わたくしのなかの兵士が溢れ出す 
わたくしをまわしてみせるまくらやみ
わたくしのなかの兵士が溢れ出す」は、自己の肉体のなかに自分でない暴力性をみる、という、ある意味でわかりやすい句。批評性が強く、いわゆる「川柳」の文脈で理解しやすい。
しかしこうしたわかりやすい「批評」だけでなく、ほとんどの句が同じように自己と世界との対峙、自己の肉体を起点として世界を「批評」する視点を持っているようだ。
おそらく作者にとって、主義や思想のようなあいまいなものは関心がない。主義や思想は言葉によって作られる。ゆえに変化する。それは彼岸の幻影のようなもので、あいまいで流動的なものだ。それに対し、批評する存在として「肉体」が在る。「肉体」を起点とすることで、作者の句はつねに形而上の世界に対する批評たりえている。言葉による形而上の世界と、肉体に代表される形而下の世界との緊張関係に、作者の「わたくし」が、濃厚に在る。

黒板に名前を書いて眠ろうか
巻末にある句。
署名はいうまでもなく自分の名であり、自らの存在を証明づける手段である。最後まで作者は、「自分」の影を残していく。そこに押しつけがましい嫌みがないのは、「眠ろうか」のように現実と夢が混濁していく、その方向性に自覚的な姿勢ゆえだろう。
執拗な、しかし誠実な「問い」として、「肉体」と「言葉」との狭間で、彼女の作品群は、濃厚な存在感を持っているといえる。





さて、そのように濃厚に作者が存在する、ということは、樋口由紀子という作家の問題なのか、それとも川柳(のなかの少なくとも一潮流)としての特徴なのか。

宙返りしてみましょうか彼岸入り 由紀子


冬座敷だれもゐなくて宙返り  御中虫
よく似た二句、並べてみるとどちらが俳句的、とはいいにくい。御中虫もいわゆる俳句の文脈からはずれた「私」が強い作家ではあるが、「冬座敷」にはそれほど明確ではない。 そしてやはりともに「季語」のもつ共有のイメージが、「私」だけではない、広がりと安心感を持っている。なんでこんなことしとんねん?という滑稽さが出ているのも、季語のもつ安心感あってのことだと思う。 その意味でもやはり、季語にもたれない作り方をする「川柳」では、「私」の在り方は、俳句とはすこし違ったふうに出ているのではないか。

※ 『容顔』(詩遊社、1999年)は著者よりご恵贈いただきました。ありがとうございました。
※ 2011.07.10、改行など表記を校訂。


2011年4月12日火曜日

川柳の杜へ

今日の漫画的一句には湊圭史さんの川柳「ピカチュウをお酢に漬ければ分かるはず」を紹介した。


はじめて川柳の鑑賞を書いたが、私自身は「川柳」のよい読み手ではない。


あるいはもうすこし、掲句の持っている「毒」についても言及すべきだったかとも思う。


作品を楽しむのに「川柳」も「俳句」もない、知識がなくても楽しめるのが「よい作品」だ、という立場もあると思うし、読者としては大賛成なのだが、一方でジャンルの蓄積をもって楽しむことも重要である。


俳句や川柳のような短詩型の場合、作品外の文脈によって規定される部分が、非常に多い。


小説や現代文にもある程度は外部の文脈があるのだが、散文の場合は日常的な訓練によって、知らず知らず多くの人が外部文脈込みで小説を読むことができるようになっている。


しかし、新書しか読まない人がファンタジーを手にしたり、重厚な歴史小説好きがライトノベルを読むことになったり、普段と違うジャンルを読み始めたときには、軽いカルチャーギャップとでもいうのか、戸惑いを覚えることがある。自分のなかで作ってきた「文脈」が、対象と合わなかったときのギャップなのだと思う。


しかし、それぞれの作品には、それぞれの作品を楽しむための、それぞれの尺度があっていい。人生訓を求めて三国志を読む人はいてもグインサーガを読む人はめったにいないし、松本清張の尺度で有川浩を測って断罪してもほとんど意味はない。


その尺度を規定するのは、煎じつめれば好みの問題ということになるかもしれないが、もうすこし客観的にいうなら「文脈」を読む力(読もうとする力)だと思う。


短詩型の場合、それはもっと極端に出る。


なにしろ短いから、内容を伝えるためには、読者のもつ「文脈」を利用したほうが効率がいい。


よほど家の事情でもない限り俳句を読む日常的な訓練をしている人などいないから、「文脈」を身につけるまでには、意識的に「読む」必要がある。


「季語」はそれだけで長文の場面設定や心情描写を省略できるし、読者の耳に馴染む「定型」も感情移入を助ける。そうした基本的な約束事(ルール)に加え、類想、類似表現を避けるための細かな工夫や、先行作のパロディ、オマージュのような仕掛けなど、ジャンルに対する蓄積がなければ楽しめない楽しみもまた、楽しみの一部なのだ。


私はこういう俳句にとって重要な側面を「(作品)外部の文脈」と呼んでおり、外部文脈を読みとる能力を外山一機氏に倣って「俳句リテラシー」としている。


「文脈」を無視して楽しめることと、「文脈」にそって楽しめることと、どちらが上かではなく、どちらもできるのが作品にとっては理想的であろう。


ただし、「文脈」を知った上で意図的に捨象することは(原理的には)可能だが、「文脈」を知らなければそのなかで読むことはできない。だから私は、ジャンルの蓄積に信頼を置いているのである。


こうした性格についてはもちろん、多くの先学が指摘し続けている。


曰く、「座の文学」(尾形仂)


曰く、「省略の文芸」(外山滋比古)


曰く、「過渡の詩」(坪内稔典)


外部文脈に寄りかかるという「俳句」「川柳」の性格が、「座」という共同性の場の問題なのか、「短詩」という形式の問題なのか、それは卵が先か鶏が先か、という議論であるが、いづれにしてもこうした「外部の文脈」の修得が俳句の「読み」について重要であるのは否定しがたい事実である。


さて、私は「川柳」についての蓄積、リテラシーがまったくないため、決して「よい読者」ではないのだが、最近縁あっていくつか川柳の句集をいただいた。ありがたいことである。この縁を幸いとして、これから私なりに川柳の楽しみ方をさぐってみたいと思う。



(この項、続く)




Haiku New Generation 俳句、リテラシー
週刊俳句 Haiku Weekly: 前略 上田信治様  澤田和弥

2011年4月4日月曜日

俳句な呟き



「関西俳句なう」 、3月は「坪内稔典1984」という特集で句を紹介したが、4月からは通常運営。私はまた、火曜担当で「漫画的一句」の観点から句を紹介することになっている。


「○○的一句」は、これまで注目が少ない、関西ゆかりの若手作家の句を紹介する、というルールで鑑賞を続けている。ときどきは大家の若い頃の作品も取りあげているが、基本的には今もっとも若い作家たちの作品を取りあげることで、自分を含めた若手作家たちの「今」の関心の在処をアピールしていく試みだ。「俳句なう」というネーミングを、自覚的に名乗る所以である。


もちろん「若手」しか面白い句を作っていない、などということはありえない。


そこで日曜更新の「俳句な呟き」では句集紹介のスタイルで、「○○的一句」の範囲にはずれた「漫画的」方向性を探ってみようと思っている。


他のメンバーの「呟き」は、俳文だったり、俳句と仕事との両立に悩むエッセイだったり、それぞれ個性が出始めている。同じメンバー同士でも次になにをどう書くかはまったく知らないので、今後どう展開していくのか楽しみである。


拙稿では昨日、山本純子氏の『カヌー干す』(ふらんす堂、2009)を紹介した。いただいた当初から楽しく読んだ一冊だったので、まとめて書けたのはよかったと思う。


ご覧いただければさいわいです。



さて、『カヌー干す』鑑賞の最後に加えた一言。


俳句の短さは、ときに詩というより日常の会話や子どもっぽい言葉遊びに限りなく近づく。そんななかで、しかし日常と切り離された「非日常」、驚きを与えてくれる、それが俳句がまぎれもなく一つの作品として独立している証拠なのだ。

このあたりが、使い古されて顧みることも恥ずかしい「第二芸術論」的発想への、単純な反論になりうる根拠だと思う。



もっともわかりやすい例でいうと、


  母の詞自ずから句となりて 
 毎年よ彼岸の入りに寒いのは  子規


(※ コメント欄にてご指摘をいただき、原句は「毎年よ彼岸の入に寒いのは」の表記でした。『子規百句』(創風社出版)などでは「彼岸の入り」表記で、原句を示す形式となっています。)

がある。「母の詞」はあくまでも「日常」の会話だが、それが「自ずから句」になっていると認識して作品として提示してしまったのは子規だ。作品として提示することにより、自然の絶対法則であるような、箴言めいた発見を楽しむことが出来る。


「日常」(会話)から切り離されて「非日常」(作品)へ移っている、あるいは「日常」(共感)から切り離されて「非日常」(驚き)へ移っている、と言ってもいいかもしれない。


この程度のことだが、この程度のことでも人は作品から「驚き」を受け取ることができる。そんな程度の「驚き」を盛る器として「俳句」があるのだと思う。


※なんだか知りませんが、ブログの調子が悪く、単純な「改行」が出来ないようです。この文章も昨日作ったものですが、昨夜は結局投稿を断念。今朝になってHTML編集にも挑戦してみましたが無駄なので、ちょっと読みにくいレイアウトですがとりあえず投稿しておきます。