「関西俳句なう」 、3月は「坪内稔典1984」という特集で句を紹介したが、4月からは通常運営。私はまた、火曜担当で「漫画的一句」の観点から句を紹介することになっている。
「○○的一句」は、これまで注目が少ない、関西ゆかりの若手作家の句を紹介する、というルールで鑑賞を続けている。ときどきは大家の若い頃の作品も取りあげているが、基本的には今もっとも若い作家たちの作品を取りあげることで、自分を含めた若手作家たちの「今」の関心の在処をアピールしていく試みだ。「俳句なう」というネーミングを、自覚的に名乗る所以である。
もちろん「若手」しか面白い句を作っていない、などということはありえない。
そこで日曜更新の「俳句な呟き」では句集紹介のスタイルで、「○○的一句」の範囲にはずれた「漫画的」方向性を探ってみようと思っている。
他のメンバーの「呟き」は、俳文だったり、俳句と仕事との両立に悩むエッセイだったり、それぞれ個性が出始めている。同じメンバー同士でも次になにをどう書くかはまったく知らないので、今後どう展開していくのか楽しみである。
拙稿では昨日、山本純子氏の『カヌー干す』(ふらんす堂、2009)を紹介した。いただいた当初から楽しく読んだ一冊だったので、まとめて書けたのはよかったと思う。
ご覧いただければさいわいです。
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さて、『カヌー干す』鑑賞の最後に加えた一言。
俳句の短さは、ときに詩というより日常の会話や子どもっぽい言葉遊びに限りなく近づく。そんななかで、しかし日常と切り離された「非日常」、驚きを与えてくれる、それが俳句がまぎれもなく一つの作品として独立している証拠なのだ。
このあたりが、使い古されて顧みることも恥ずかしい「第二芸術論」的発想への、単純な反論になりうる根拠だと思う。
もっともわかりやすい例でいうと、
母の詞自ずから句となりて
毎年よ彼岸の入りに寒いのは 子規
(※ コメント欄にてご指摘をいただき、原句は「毎年よ彼岸の入に寒いのは」の表記でした。『子規百句』(創風社出版)などでは「彼岸の入り」表記で、原句を示す形式となっています。)
がある。「母の詞」はあくまでも「日常」の会話だが、それが「自ずから句」になっていると認識して作品として提示してしまったのは子規だ。作品として提示することにより、自然の絶対法則であるような、箴言めいた発見を楽しむことが出来る。
「日常」(会話)から切り離されて「非日常」(作品)へ移っている、あるいは「日常」(共感)から切り離されて「非日常」(驚き)へ移っている、と言ってもいいかもしれない。
この程度のことだが、この程度のことでも人は作品から「驚き」を受け取ることができる。そんな程度の「驚き」を盛る器として「俳句」があるのだと思う。
※なんだか知りませんが、ブログの調子が悪く、単純な「改行」が出来ないようです。この文章も昨日作ったものですが、昨夜は結局投稿を断念。今朝になってHTML編集にも挑戦してみましたが無駄なので、ちょっと読みにくいレイアウトですがとりあえず投稿しておきます。
毎年よ彼岸の入りに寒いのは 子規
返信削除は「彼岸の入り」ではなく、「彼岸の入」ですね。
>匿名さま
返信削除なるほど、ご指摘ありがとうございました。
訂正記事を入れさせていただきます。