2020年4月10日金曜日

私は異教徒


論考にもならない、駄文である。





どちらかと言えばこれまで、マジョリティではなくマイノリティの側に生きてきたと思う。

自分のいる共同体は心地良い空間で、私にとってこれほど安心する場はない。
一方、自分の分野に興味を示さない人たちは、別種の、不可解な異人に見える。

私にとっては音楽ファンも理解できないし、スポーツの話題に興ずる人たちは、ほぼ異教徒にしかみえない。
まあ五輪もW杯も、日本人が買ったと聞けばなんとなく嬉しいし、テレビを見ていれば主要な選手や話題は何となく頭に入るが、試合を観戦することはまったくない。
だから私は、博物館や史跡を見に旅行することはあるが、スポーツ観戦やライブのために旅行(遠征)する人が実在するのが、よくわからない。異文化そのものだ。
私はたぶん、よっぽどよく知っている人が出場するというのでもない限り、母校が甲子園で優勝したとしても観には行かないし、それが吹奏楽や将棋の大会でも同様だろう。

異教徒たちが自分たちに共有の価値観にもとづいて、その価値観を当然のものとして交歓しているのを見るとき、実に不可思議な気分になる。
彼らは、私にとって不可解なジャーゴン(業界用語)を取り交わし、私にとって何の魅力もない対象に熱狂し、敬愛し、共感し、涙している。
そして、当人たちが意識しているかどうかわからないが、「その」共同体が、とても排他的で、「私」の仲間入りを拒んでいるような、そんな被害妄想におちいる。
私にとってスポーツや音楽ほど遠い存在ではなくても、
 たとえば、私の知らないマンガやゲームに熱中している人たち、
  私がまったく関心を持てない小説や俳句を愛好する人たち、
に対しても同様に感じる「疎外感」である。

特にSNSという場は、小さな共同体を作りやすく、そのうえ共同体内部で熱が沸騰しやすく、それは共同体内部の結束を高め、共感しあうにはとても心地よく、しかし、だからこそ圧倒的に排他的で、共同体の掟を理解しない「異教徒」に乱されることを、極度に怖れ、警戒し、殺気立っている。

少なくともそう見える。

もちろん、私自身もそう見えるのだろう。
私自身は、明らかに中立ではなく、また、中立を自称したこともないつもりである。

くり返すように私はスポーツや音楽より読書が好きな子どもであったし、数学や物理の問題には今も昔も関心を持てないし、同時代の『少年ジャンプ』連載漫画より往年の『ガロ』掲載の白土三平や水木しげるに親しんできた。
そうした人は、全国で数えれば少なからずいるはずだけれども、全体的にみればやはりマイノリティであり、極端といっていいほど偏向している。

生まれも育ちも関西であるし、現代俳句協会会員であるし、なにより俳句甲子園で俳句に出会い、「船団の会」会員として口語俳句を作っている。
中立なわけがない。偏向そのものだ。

いつ自覚したのか覚えていないが、私は、たいていマイノリティの側に生きてきた。
しかし、たしかに変わり者という扱いではあったけれど、小中高と、それなりに仲間には恵まれ、部活動では部長としていい経験をさせてもらった。
大学・大学院に進んでからはよき師、よき先達に出会って、文学(怪異学)探究と、俳句の実作・評論を続けている。
案外自分は、マイノリティに見えて、特別でも何でもないのではないか。

そうした自覚が確信に変わったのは、インターネットのおかげである。
インターネットの世界にはおそろしくひろいろな人が、いろいろな情報発信をしていて、自分の好きなジャンルについても多くの人が知見を公開している。
それを見ていると、なんのことはない、私のような趣味嗜好の人はどの年代にも一定数存在するし、そのなかには私などが及びも付かないほど深く、また膨大にして微細にわたる知識と、そして行動力や企画力をもってその知識を活かした表現活動を行っている人たちが、存在したのである。

少なくとも、私は、孤高の存在でもなんでもない。
むしろ、平凡な、ありきたりの人間にすぎない。

そう自覚するにつけ、ことさらマイノリティを自負し、一つの価値観を信奉するようなやり方に、違和感を覚えるようになった。
それは明確な排他主義であり、別のマイノリティを排除しているだけではないか、と思うようになったからである。
私自身が中立でありえないのは確かとしても、「異教徒」の話を聞き、お互いなにが違うのか、なぜ違うのか、聞く機会を持ちたいと思った。

私の中にある「マイノリティ」は、個性として恃む限りは私を意味づけるけれども同時に異教徒との分断を生み、私の中の「平凡」は、私をその他大勢に埋没させるけれども異教徒との共感を生むはずである。

幼いころ、自分の好きになれないスポーツや音楽の祭典に浮かれる人たちはまったく理解できず、高校野球の中継でアニメ番組が放映されないときは大泣きしたし、オリンピックで連日大騒ぎしている人は、本当に大嫌いで、心底馬鹿にしていた。
しかし、自分が好きになれないものを好きな人たち、に対する関心が芽生えてきた。
そこにある熱は、もしかすると私が水木しげるに捧げる、あるいは桂米朝の落語にもつ、そうした熱と同じなのではないだろうか。

以前、BL俳句誌『庫内灯』の発刊編集に、少しく関わったことがある。
私自身が腐男子ではないのにそんな企画に関わっていたのは、上に書いたような、私の感じない熱、「萌え」によって動く人たちと仕事をするのが、面白かったからである。

自分が、「マイノリティ」であることと、「凡庸」であることは、併存する。
そこに私が、ある。
すくなくとも「マイノリティ」=「孤高」であることを根拠とする俳句は、私ではない。

そう思うように、なったのである。



0 件のコメント:

コメントを投稿