俳句甲子園対策に使えそうな、練習ゲームを考えてみました。
A、B、Cの3チームに分かれます。最小は3人でも可能です。
まず「親」を決めます。ここではAとします。
「親」Aは、一句詠みます。渾身の一句をお願いします。
あるいは、自分の句ではない有名句を持ってきてもいいかもしれません。
B、Cは、攻守を決めます。仮に、攻B、守Cとします。
Aの句が出たら、若干の作戦タイムをとって、試合開始です。Bは、Aの句を徹底して攻めます。Cは、守ります。時間配分などは、俳句甲子園ルールに準じます。
大事なことは「他人の句」で、しかも「仮に攻守を決める」ことです。
Bは、自分の好きな句でも攻める必要があります。一方Cは、自分ではあまり良さがわからない句も、一生懸命アピールする必要があります。
初心者が陥りがちな俳句甲子園の誤解に、「自分の句は自分で守る」「相手の句はとにかくdisる」というものがあります。
いま全国大会でそんな勘違い・初心者は、ほとんど出場できないと思いますが、もしこのblogを、俳句甲子園初心者の方が見ていれば、考えを改めていただきたい。
自分の句について、もしかすると自分より深く知っているのは他人かもしれない、というのが俳句の基本的な考え方。(※)
自分の句について、もしかすると自分より深く知っているのは他人かもしれない、というのが俳句の基本的な考え方。(※)
そう考えると、大事なのは、C守かもしれません。疑問点、批判点を突くのは、ある程度「型」を覚えてしまえば簡単というか、まあ最低限形にはなります。
しかし、守るためには句を理解し、よい解釈を見つけてあげる必要があります。
もちろんB攻も、それに応じて攻めを考える必要があるので、型どおりの、揚げ足取りだけで何度もやっていくことはできません。あくまでも最低限、と言うこと。
しかし、守るためには句を理解し、よい解釈を見つけてあげる必要があります。
もちろんB攻も、それに応じて攻めを考える必要があるので、型どおりの、揚げ足取りだけで何度もやっていくことはできません。あくまでも最低限、と言うこと。
判定は、まあ全員の合意で決めてもよいですが、基本的にはAが決めることになります。
Aの句が終わったら、Bの句でC攻A守、Cの句でA攻B守、とまわしていきます。
発展型です。
同じくAが句を出します。
B、Cは、攻守ではなく、先攻後攻を決めます。
そして、交互にその句の解釈をし合います。
時間は、まあ一回2~30秒くらいでしょうか。Bが話し終わったらC、Cが話し終わったらB、というふうに交互に、その句について語り合います。
よい点ばかりではなく、悪い点、直した方がいい点、いやまったく別の解釈、など、相手を否定する必要はありませんが、相手の言わなかったことを言う必要があります。回数を重ねると、だんだん言うことがなくなり苦し紛れになると思われますが、そこでどれだけ別の視点を提供できるかが勝負です。
時間は、まあ一回2~30秒くらいでしょうか。Bが話し終わったらC、Cが話し終わったらB、というふうに交互に、その句について語り合います。
よい点ばかりではなく、悪い点、直した方がいい点、いやまったく別の解釈、など、相手を否定する必要はありませんが、相手の言わなかったことを言う必要があります。回数を重ねると、だんだん言うことがなくなり苦し紛れになると思われますが、そこでどれだけ別の視点を提供できるかが勝負です。
どちらかが、完全に何も言えなくなったら試合終了。最終的に、Aはどちらの解釈がより踏みこんで、句のよさを引き出していたか、を判定します。言葉に詰まっても、先によい解釈をできたら勝つ可能性はあります。
この場合Aの出す句は、自分の句より、解釈が多義的な、有名句を出すほうがやりやすいかも知れません。その場合、Aの選句センスも問われそうです。
また、先に話し始めるBのほうが有利のように見えますが、Bの解釈の上に話せるCのほうが有利かもしれません。わかりません(やったことないから)
いかがでしょうか。
単なる思いつきですので、うまくいくかどうかわかりません。
やってみたい方、どうぞご自由に。
*
発展型を考えた理由としては、上に書いたように俳句の鑑賞がある程度の「型」におさまってしまう、ということに対する疑問からです。
これについてはまた、詳しく書きたいと思いますが、俳句の作り方で「マイナスを避ける」やり方があります。作句の作法書(入門書)に書いてある「ダメな作り方」を避けていく、というやり方です。
つまり、
- 定型(中八になっていないか、上五は伸びてもよいが下五はいけない、言葉を入れ替えて作ってみる)
- 季語(季語は入っているか、季重ねになってないか、当季か、季語の本意は合っているか)
- 文法(文語文法、仮名遣いに間違いはないか、意味がわかりにくくないか)
- 類想(先行する類句はないか、月並みな表現になっていないか)
など、まるでチェックリストでチェックするように俳句の作法をチェックして、無難な句、「上手い句」を目指そうとするような、あるいはそれを目指すように指導するような、そんな画一的な俳句表現におちいってしまうのは、私は反対だからです。
どれだけ多義的な読みを展開できるか。
どれだけ俳句を楽しめるか。
そちらのほうが、よほど俳句表現にとって豊かで有意義だ、と思うわけです。
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曾呂利亭亭主のtwitterはこちら→ sorori@sorori6
※2017.02.26追記 この部分、本当は「俳句」に限らず表現一般に共通する。作品についてもっとも深い理解者が「作者」に限られるなら、読者・鑑賞者はサブ的な立場にしかいられないし、作品研究なんて成り立たない。作者が自解してくれればすむ話なので。
そうではなくて、読者・鑑賞者の鑑賞によってはじめて「作品」が立ち上がる、それは作者であっても知らない「作品」の可能性がある、というのが、現在共有される基本的な考え方であると思う。
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