2016年12月31日土曜日

年の瀬に

 
今年の「曾呂利亭雑記」は、多くをKuru-Coleについやした。
ブログ版Kuru-Cole(2016)は、ひとまず8人のプロデュースで終了した。


  1. 西川火尖(評者:外山一機
  2. 野住朋可(評者:西村麒麟
  3. 吉田竜宇(評者:青木亮人
  4. 小鳥遊栄樹(評者:山口優夢
  5. 安里琉太(評者:黒岩徳将
  6. 寒天(評者:中山奈々
  7. 木田智美(評者:土岐友浩
  8. 家藤正人(評者:橋本直
今回この8人を選んだ基準は、①既存アンソロジーに入集していないこと、②これからもっと活躍する作家になる(と久留島が予想する)ことのふたつ。

もうひとつ、②に関して俳句の可能性を広げてくれる作家という隠れたテーマもあったのだが、これについては直感的で説明が難しい。身近にもっととりあげるべき作家もいたが、ひとまずキャリアをふまえ優先的な8名を推した。
関西の作家が多いのは、人間関係的なこともあるが、メディアにとりあげられない実力者が関西に多いためでもある。
関西にはまだ次世代の人材も育っており、次にとりあげる機会があればさらに紹介できることと思う。まずは何の謝礼もない個人のblog企画に賛同し作品を寄稿いただいた作家8人に感謝したい。

今回のKuru-Coleの見所は、なんと言っても小論の書き手に一流の人材を配したところ。
いずれも、私がもっとも信頼する、一流の評論家ばかりである。
それぞれの組み合わせは、完全に私・久留島元の独断。フィーリングによる。もともと作家と親しい関係の人もいるし、お互いまったく面識のない関係の人もいる。
私が選んだ作家の、わずか20句から作家論を書いてくれという無茶な要望にもかかわらず、またそれぞれ書き手として多忙を極めているにもかかわらず、いずれも鋭く力の籠もった労作を寄せていただいた。「これから来る」8人の出発を祝していただいた、評者8人にも改めて感謝したい。

とりわけ興味深かったのは、西川火尖論をお願いした外山一機氏の「敗色のなかに詠う―西川火尖小論―」
正直この組み合わせで了解をもらったとき「もらった」と思った。
この企画、これだけで面白くなる、と。
西川火尖は、たぶん2016年の俳句関係のSNSでもっとも存在感を増したひとりだと思うが(きわめて狭い範囲であるが)、おそらく数年内に俳句界においてもっとも注目される存在のひとりになるだろう。(決して、今全然来れてなかったとか、そういうことじゃなくね、火尖さんならもっと来て良いとかね、そういうことですよ!)
外山氏の評論は火尖論と表裏になるという小川軽舟論が公開されている。正直このセットは文学よりも社会学の関心ではないかと思うが、火尖俳句の位置づけを的確にあらわした好文であろう。



さて、私自身はこれまで現代の俳句を「パフォーマンス」という鍵語でとらえ、また若手と呼ばれる作家を「パフォーマンス」意識によって特徴づけようとしてきた。
代表的な作家としては高柳克弘、御中虫、神野紗希、佐藤文香らであり、やや先行する世代として塩見恵介、高山れおな、関悦史などの実験的な作風の作家を意識している。
総じて彼らは、なにか社会へのメッセージや主義主張など、伝えたい内容が先にあって表現する作家ではない。むしろ作品を「演出」し、「読者」にどのような作家として見られたいか、どのような作品を届けるか、というところに自覚的である。
高柳克弘、御中虫に特徴的な物語性ゆたかな文体。
西村麒麟や外山一機における過剰なまでの作家性の演出。
おそらくそれはかつて金子兜太の提唱した「造型俳句」を仰ぎ見つつ、「古典の時代」「平成無風」を通過してきた作家たちなりの、自己規定なのだろうと思う。

ところが、今回とりあげた8人には必ずしも「パフォーマンス」意識が濃厚とはいえない。
何か主張があるとも思えないが、パフォーマティヴな外連味も感じない。
というより、正直なところ今回の8人に共通する世代論など、今の私には出せそうにない。それほどバラエティ豊かな8人ではある。
橋本直氏は家藤正人の作家性の希薄さを指摘している。
なるほど彼の巧みさは、個性の点で少し弱い面があるかも知れない。また野住朋可、安里琉太の場合は、やや素材や技法の狭さが見てとれる。真に彼らが実力を発揮するのは、まだ少し先かも知れない。
しかし吉田竜宇、小鳥遊栄樹、寒天、木田智美などすでに個性を発揮している作家も、あまりパフォーマティヴな印象は見えない。
これが、わずか3年での作家の変化なのか、私自身の見通しの甘さなのか、それとも今回とりあげた作家たちのキャリアや年齢的なものに由来するのか、まだ結論はない。



「松山俳句甲子園 関西オープン戦」と称したイベントが、12/25に行われた。
年の瀬、クリスマス当日という時期に、京都・兵庫・和歌山・名古屋・岐阜から、5校9チームの現役高校生と、OBOGチームが参加し、練習試合が行われた。中にはチームとしては参加できなかったが見学に来た、という熱心な高校生もいた。
主催・実行は俳句甲子園実行委員会関西支部。発起人の三木基史氏が中心となり、当日は俳句甲子園出身者など20代メンバーがスタッフとして動いた。
公式戦とは違い3人一組の対戦だったが、さすが常連校は本番さながらの気迫だったし、まだチームを結成して間もない高校にはそれらしい初々しさがあった。
私は今回、関西現代俳句協会青年部部長として試合に協賛し、審査員の立場で参加した。
本来なら俳人協会、伝統俳句協会と各協会から参加があるのが望ましいが、俳句甲子園関西支部が立ち上がったばりで、各協会の地方支部がどの程度関わってくれるかわからなかったし、まずは身近なところが参加するのも良かろうと協賛・参加したわけだ。
当日、審査員としては、意識的に厳しめなコメントをした。
以前「俳句甲子園に期待しない」という文章を書いた人間が言うのもなんだが、俳句甲子園を今以上に「俳句を楽しめる場」にするためには、画一的・マニュアル通りな句の作り方とディベート方法を改善するべきだろうと思っている。
あとからほかの審査員、スタッフに「ちょっと厳しすぎたのでは」「高校生が泣きそうだった」と注意を受けたが、些末な俳句技法について指導をしても教科書的な優等生俳句を生み出すだけではないかという不満がある。
最後のコメントとして、私は「格調高い句、技術的にうまい句ばかりをめざすのではなく、どこか破格を目指して俳句を作ってください」とお願いした。
過度な要求かも知れないけれど、私自身は高校生たちに破格の楽しみ方を知って欲しいのだ。



自分と同世代か、すこし若い世代と話していて違和感を覚えるのは「俳句がうまくなりたい」という人が多いことである。
正直なところ、私自身は「うまくなりたい」と思って俳句を作ったことがない。
だから「うまくなりたい」人に向かって、うまくアドバイスすることができない。
技術的なうまさは、たぶん「うまい」俳句をたくさん読んで、それを真似してたくさん俳句を作れば、筋トレ的な意味で「うまい」句を作ることはできるだろう。
だが、「うまさ」とは、結局既存の表現技法の範疇におさまる評価軸ではないろうか。

うまくなりたいのでなければ、何のために作っているのか。
単純だが、やはり「楽しい」からだろう。
少なくとも理想的な「うまさ」をめざして、誰かにほめらえたくてやっているわけではないし、と言って俳句の上で表現したい「なにものか」があるわけではない。
ないと言って言い過ぎならば、意識していない。
私は、私自身が自覚する程度の自意識・自己は、千度表現し尽くされた、陳腐なものだと思っている。あるいは自分を表現するなら、散文のほうが精確だと思う。
ただ、俳句表現のなかに新しくなにかを付け加えることができるかどうか、自分自身や、自分の目にした俳句が未知の新しさを付け加えてくれるかどうか、という期待から俳句にかかわっているのだ。

五七五を基本とする定型、季語をはじめとする膨大な詩語の蓄積、その他、がんじがらめになってしまうような複雑な技法と作品の積み重ねのなかで、それでも自分が一句を成すとき、自分が新しく加えたという自負がなければ、やってられないのではないか。
表現した、表現されてしまった結果、その作品のなかで新たな「自分」を再発見する。
偶然だか必然だか、そんなこと読者には関係のないことだけれど、たしかに現在生きている「作者」のよすがが、後天的に作品から感じられる。
その過程こそきわめて俳句的だ、と思うのである。

私は、俳句甲子園に出場する現役生にも、また俳句甲子園をすでに卒業し、あるいは俳句甲子園とは全く関係のないところから現れた若手作家にも、できれば自分の表現に意識を持ち、なにか生み出そうという自覚を持った人であってほしい。
また私自身としても単に俳句の評価軸で「ほめられる」ためにうまくなろうとか、格調高くあろうとか、そうではなく、俳句という表現を自分で楽しんで作るような、そういう作家でありたいし、またそうした作家をこそ「仲間」と呼びたい心地がするのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿