まだまとまってないのですが、忘れては困る気がするので書いておきます。
発端は、ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 〔ためしがき〕 松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」に応えて 福田若之
とても重要な論点に至っている気がするのだが、どうもコメント欄とかツイッターとか、その問題に触れているものがない。私の誤読、誤解だろうか。
コメント欄では「公共性」という言葉について、なんだかうじゃうじゃへんな意見が飛び交っている。異性愛の公共性とか、民主主義社会において、とか、文芸作品の批評とも思えない。訳が分からない。
福田くんの指摘は、もっと作品に即した詠みと読み(創作・鑑賞)にまつわることであって、(政治的・社会的)公共性があるかとか、そんなことじゃないですよ、明らかに。
そして、「BL俳句に公共性がない」という指摘は、別に社会的・政治的に認められてないとか、男性主義的社会に於ける異性愛と同性愛がうんちゃらかんちゃ、んなことじゃない!(と思う)
重要なのは、「BL俳句の読み書きは明らかに個々の「私」と深く結びついているのだ」という部分だ。その「私」の対比としての「公共」の欠落なのだ。そして、福田氏くんの指摘するBL俳句の「私」とは、単純な「ウチワ感覚(楽屋オチ)」的なものではないはずだ。
つまり、BL俳句というものを「読み書き」するとき、作者はともかく読者が、自らの性(セックス/ジェンダー)と不可分に語るやりかた。
あるいは、自らの「萌えツボ」や「性癖(誤用/性的嗜好と言うべき)」とリンクさせ、あくまでも私(個)の、特殊な嗜好・愛着であることを、声高に(ここ重要)強調する、という点。
そこに、私もずっと違和感があったので、福田くんの指摘に共感したのである。
BLであろうがなかろうが、俳句作品の「良さ」があるなら、それを読者として共有したいと思う。しかし、その「良さ」を感じることを、あるいはその条件付けを、「性」や「嗜好」という「個」に囲い込まれてしまったら、そこにほかの読者が立ち入ることができないではないか。
BL俳句を愛好してやまない作者・読者たちの言説による、一種異様とも言える愛着と熱狂は、しばしば私を当惑させる。もちろんそれはオタク文化特有の「熱」だと、割引いて考えればいいようなものの、それだけではない気もする。
「個」としての読者の「私」と、「個」である作品・作者の「私」との出逢いを、ドラマティックに盛り上げ、奇跡として語ること。そこに、読者と作者の「個」の特殊性についての過剰な期待と信頼を、見てしまうのである。
それは、いちおうフラットな「読者」を想定して作品を読み解き、表現史のなかで位置づけようとする、通常の「鑑賞」行為とは、かけ離れている。
つまり、特殊な「個」へ(しか)届かない、届けようとしない表現行為があるとすれば、それは通常の、広く読者を求め、多様な読みを歓迎する作品の在り方とは異質の行為であるし、そうした小さな「私」(個)を超えた表現行為への希求こそ、これまで俳句の重視してきた、たとえば「写生」などの姿勢ではなかったか。
ということが、私なりに受け止めた福田くんの問題提起なのである。
私がただちに想起したのは、外山一機氏による次のような文章であった。(下線、引用者)
井上の句に対する青木の読みのありようは多分に私的であるが、しかし井上の句とは、そのような読みによってはじめて生き生きとしたものとして発見されるものでもあったのである。このような読みかたや井上に対する評価はある意味で独善的なそれのようにも見えるが、読み手としての青木はもっとしたたかだろう。竹中宏論と関悦史論の間に井上弘美論を配置する青木であってみれば、自分の読みのありように無自覚であるはずがない。読む行為がはらむ本質的な傲慢さについて自覚的であろうとする青木を前にしたとき、僕は青木が井上のために一項をたてたことに誠実さを感じる。
-BLOG俳句新空間- : 【俳句時評】ささやかな読む行為 ―青木亮人『その眼、俳人につき』― / 外山一機
青木亮人氏の評論集に収められた井上弘美論に対しての評言である。
ここに指摘された、読み手の「傲慢さ」こそ、BL俳句における読み手の「私」性の強調と通底するものではないだろうか。
外山氏自身も、俳句を読むリテラシーの形成という問題から、読者の恣意性と俳句表現の在り方について、つねに警抜な文章を発表しつづけている論者である。
もちろん、これまで中立を装って書かれた「鑑賞」であっても、本当に中立であったことはない。理論的に中立を志向していたとしても現実的に評者「個」人のバイアス(偏差)をなくすのは不可能だから、そのバイアスの存在を指摘し、あまつさえそのバイアスを糾弾し否定する、ということもしばしば見られる光景であった。外山氏が感じた青木氏の「誠実さ」とは、まさにその個人的バイアスに自覚的であることによる。それはいい。
重要なのは、そうした「個」のバイアスに、評者が自覚的になってその偏差をなくそうとしているか、それとも「個」のバイアスを強調しているか、という点である。バイアスの自覚から、どこをめざしているか、何を捨てたか、ということである。
そのように自覚される読者の「私」の強調が、俳句になにをもたらすか、私にはまだ判断がついていない。
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