注意力のちぐはぐな作動ぶりを記したこの句は、「おもしろさ」も「かなしさ」も持ちつつ、しかし読者の感情移入を誘ったり、何らかのメッセージを伝えたりする暑苦しい同調圧力からは徹底して身を遠ざけており、・・・
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穂村弘氏が提唱する、詩の二分法として「共感(シンパシー)」と「驚異(ワンダー)」というものがあって、これは大変便利な概念であると感心して当Blogでも、たびたび用いている。
しかし、もちろんこの二分だけで割り切れるものではない、という気もしていて、(当たり前だ)特に俳句について考えたときには、また別の基準が必要だと感じていた。
それはもちろん、「写生」とか、「前衛」「伝統」とか、旧弊のキャッチフレーズなどとはもちろん無縁な基準である。
上にひいた関さんの評は、「春の夜の時刻は素数余震に覚め 榮猿丸」という句に対して書かれたもの。
作句技法としては、正統派の「写生」といってよいだろう。
「余震」で目が覚め、ふと目にした時計が「素数」を表示していた、という。地震で目覚めて時計を見るという行為自体は「あるあるネタ」であり、そこには「共感」がある。
しかし「時計」の表示を「素数」と見る感性は普通ではなく、関さんのいう「注意力のちぐはぐな作動ぶり」がきわだつ。
しかしこれを「驚異」と呼ぶことにも躊躇いがある。
最近、これがいけるんじゃないか、と思い出したのは、「親和」と「異和」である。
さへづりのだんだん吾を容れにけり 石田郷子
はつなつの太平洋のものを干す 対中いずみ
若葉風らららバランス飲料水 宮本佳世乃
たとえば、ここには大きな「季語」的世界観との親和を看取できる。
それに対して、たとえば
青嵐ピカソを見つけたのは誰 神野紗希
アイスキャンディー果て材木の味残る 佐藤文香
これらは、明らかに「共感(シンパシー)」を基盤として作られているにもかかわらず、同調・調和とはむすびつかない、むしろ、「季語」のような、外界との異和を表面化させている句であるといえる。
榮さんの句もまた、「余震」という不安な状況下においてなぜ「素数」に気づいたか、そして「素数」に気づいた作者の意識の持ち方、という点において、「異和」が残る。
どちららがいいとか悪いとかではないのだが、「驚異(ワンダー)」に向かわない方向の「異和」という感覚、あるいはまた「共感」とも違う、外界との「親和」という方向性について、すこし考えてみたいと思うのである。
2014.01.20 追記、参考。
「薄氷に壊れる強さありにけり」「歯ブラシを噛み締めてゐる遅日かな」「浴衣脱げば脱ぎ過ぎたやうな気も」「串を離れて焼き鳥の静かなり」「冬の朝座つているといふ動作」。たとえばこれらの句、私たちの日常を定義し直している感じがする。日常が今までとは少しずれて現れるのだ。
そんなことと関わるのかどうか。
大変刺激的な、時評的な記事をふたつ。
【週刊俳句時評86】 まれびとの価値論と、句集2冊 上田信治
しかし、俳句にルールがありその一つが季語であることが、俳句の、人の発話であることからの遠さ、言説性の欠如、現実世界との紐帯を切らないといった性質を、発生から基礎づけている。それは、本当のことです。
短歌評 <ショート・エッセイ>何が違うか 筑紫磐井 - 「詩客」短歌時評
短歌の歴史が前田透の言うように「主体的表現を獲得する」ための長い歴史であるとすれば、俳句の99%は、季語を使い――ことによると季語を使わないでも――、「主体的表現を放棄する」ことによって生まれるものだということなのである。
『アナホリッシュ国文学』、未読ですが大学図書館には収蔵されるはずなので、いずれじっくり読もうと思います。
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