本日、11/16アップの「詩客」で、10句作品を掲載いただいております。
毎週愛読している俳句時評は、湊圭史さんの番。筑紫磐井氏の『伝統の探求〈題詠文学論〉――俳句で季語はなぜ必要か』について。
筑紫著のほうは話題なので読もうと思いつつ、未読で、その内容も気になるところですが、湊さんの文章も読み応えアリ。特に、従来の俳句評論において、
「写生」や「季題・季語」といった言葉や概念がどのように成立し、また、その内実を変化させてきたのかについての視点が欠けているからなのだ。他の用語、例えば、「客観-主観」、「花鳥諷詠」等々についても、その成り立ちを掘り起こすような考古学的まなざしが向けられるべきなのだが、実作者による論が多いためもあるだろうが、創作論に引きつけすぎた自己主張、自己の派閥の主張から出た分析は少ない。
といった指摘は、これまで私も感じていたところだったので、まさに我が意を得たり。
もちろん、実作者として、実作理論を立ち上げる上では「自己主張」に拠って語るというのも重要だし誠実な態度なのだろうが、今まではあまりに「自己主張」の論ばかりが目立っていたようである。
近代俳句百二十年。虚子没後五十年を経て、そろそろ、実作者としての熱を冷まし、「考古学的」に、俳句を眺める視点があってもよい頃だろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿