2010年3月7日日曜日

京都市地下鉄にて。


俳句と標語

なんて、筑紫磐井さんがとっくに手がけているテーマですね。



  裏側に階段あります春の雨



  三月の裏の階段下るべし


  
  早春の蛇口をひねればすいどうすい
 
   
「週刊俳句150号」は、「まるごと川柳」特集。

実は先日私もはじめて柳人の方々と句座をともにする機会があったのですが、「川柳」というのは「俳句」以上にとらえどころのないものであるなという感じ。そこでも少し話題に出たのは、「川柳」や「俳句」が「標語」に近づいていく、そのことをどう捉えるか、という話題。

別に、近づいても混ざっても全然構わない、というのが私の立場。それで、「おもしろい作品」が読めるのであれば。

ただまぁ言う必要もないことをいえば、「標語」は何か伝え広めるための主張を明確に有しているわけですが、そのあたりを朧化して季語にズラし、具象に託してしまう(のを好む)のは「俳句」的かな、と思います。
「川柳」は違うかも知れません。一般的には、諷刺という「メッセージ」があったり、作者の「思い」を伝えたかったり、もうすこし読者へ伝える意志が明確な印象があります。

とはいえ実際に現代川柳を読ませていただくとそうでもなく、もっと言葉の面白さで勝負している作品も多くあるようです。やっぱり「川柳」は、特に現代川柳はつかみきれないところがある。特集号で湊圭史さんが、川柳とは形式ではなく「場」という言い方をされているのは、その意味でもとても興味深い。
我々、ついつい「短歌」「俳句」「川柳」と並べて、形式とか本質とか考えて比較してしまいますが、もとより土俵とか次元の違う概念だと捉えるべきなのかも知れません。
 

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