2010年11月29日月曜日

選考会(2)

 
承前

俳句賞の選考会にとって「選考委員が複数であること」はどういう効果・意味があるのか、という話題である。
結論から言ってしまえば(まずおおかた予想できるとおり)「句会」効果である。

ここ数年、ほぼ毎年のように11月になると鬼貫青春俳句大賞の公開選考会に参加している。毎年投稿して敗れ去っていたのだが、それはそれとして、いち観衆として選考会を眺めていても、なかなか面白いものがある。
それは、異なる視点をもった選考委員がひとつひとつの作品をそれぞれに「読」んでくれるからだ。同じ作品に対して異なる意見をもつ五人が、お互いの意見をすりあわせながら作品に対する評価を定めていく。
自分の作品、他人の作品に対する評が交わされ、納得しあったり、ひとりの思いがけない発言で、(よくもわるくも)がらりと議論の風向きが変わったりもする、そのライブ感。

これはそのまま「句会」である。観衆は「句会」に参加した心地で楽しんでいるのだ。

鬼貫賞の選考委員は例年五人。坪内稔典氏(「船団」代表)、稲畑廣太郎氏(「ホトトギス」副主宰)、山本純子氏(詩人・俳人)、岡田麗氏(柿衛文庫学芸員)、に後援の伊丹市商工会議所からひとり参加者がある。
顔ぶれを見ていただくとご想像のとおり、選考会はだいたい例年、坪内氏の主導のもとに、いかに稲畑氏の「有季定型」が妥協するか、がひとつの争点となる。(坪内氏が司会をするという現実的理由もある)

今年、稲畑氏が推したのは次のような句である。

露草の踏まれてきゆうと鳴りし朝  「一日千秋」
家々へ子らをみちびき秋灯     同

天空の光を引きて燕来る      「四季」
聖五月石畳行く修道女       同

稲畑氏はこれらの句群を「素直」と評して高く評価したのだが、果たしてこれらは素直と呼べるかどうか。
選考会中、坪内氏も指摘していたが、「秋灯」「聖五月」といった季語の本意はすでに我々の「素直な」日常とは違う、虚構の世界である。 「伝統俳人」とは、有る意味そうした虚構(季語の伝統)を通じてのみ「写生」する人々だ、といえるかもしれない。
従ってたしかに「伝統」には「素直」な句だが、「写生」と呼べるのか、句として魅力があるかどうか、疑問である。 当日もこの「素直さ」が争点となり、結局これらの作品はどれもほかの選考委員の推薦をうけるには至らなかった。

坪内氏は今回の選考会冒頭、次のように発言していた。うろ覚えなので大意要約だが、

若い人たちの賞なのだから、無茶をしてほしい。もっと俳句にとって無茶が必要なのではないか。正岡子規は明治のころ、俳句の可能性を使い尽くす、というつもりで俳句を作っていた。子規は百年後に俳句が残るとは思っていなかったし、自分たちの世代で滅びるとさえ思っていた。だから無茶な冒険もたくさんした。無茶が俳句を豊かにするのだ。
稲畑氏の有季定型、「素直」を尊しとする姿勢とは全く違うのである。では他の人はどうだっただろうか。

山本氏はH氏賞受賞歴もある詩人である。口誦性や独自性、なにより楽しげな雰囲気を大切にされている。今年山本氏のイチオシは金田文香さんの次のような句群。山本氏は終始、金田さんの感性のオリジナリティを評価していた。

椅子机椅子机椅子机夏至
籠に屑入らずともよし晩夏光
永き日のバイソンの地鳴りかもしれぬ

KANADA「くすくすむずむず」

岡田氏は柿衛文庫の学芸員である。毎年、季語の本意、発想の新規性などバランスよく目配りした評が印象的である。第五回でまっさきに徳本和俊「SHIRO」を推された英断には敬服せざるをえない。

九戸城オタマジャクシがまだ来ない
二条城二百十日のことでした
首里城はまだ少し先去年今年

徳本和俊「SHIRO」

門外漢である商工会議所メンバーの方から思いがけない発言が飛び出すこともある。
今年面白かったのは、句を「文章」と呼び、「わかりやすい文章」を基準に選んだと発言していたこと。(ちなみに私の作品は「わかりにくい文章」と評された)これについて坪内氏が、
句のことを普通、文章とは呼ばないですね。でも、考えてみればこれもひとつの文章なわけで、句読点はないから文ではない。文章という視点から見てみると別の視界が広がるかも知れない。
と発言しており、興味深かった。畸形の文章としての「俳句」を考えてみるとき、その畸形性は「片言性」という坪内氏のキーワードをもって理解しうるだろう。

昨年大賞に選ばれた羽田大佑くんの作品は、坪内氏が1位、稲畑氏が2位、岡田氏が4位に選んだ作品であった。

青年はスーツのままに春祭
専攻は古代ギリシャ語星月夜
マフラーを巻く本心に触れぬやう

羽田大佑「カタカナ+ひらがな+漢字」

坪内氏は、就活や大学生活のなかで揺れ動く青年らしさをよしとし、また俳句に馴染みの薄いカタカナ語を積極的にとりこむ姿勢を評価した。稲畑氏はカタカナ語を用いつつも季語をしっかりと使い、有季定型におさめる技倆を評価した。
ひとつの作品をめぐって、異なる視点からの「読み」が重なって受賞に至ったのだ。

句会とは、ひとつの作品に対して多様な「読み」を許容するシステムである。
複数による選考会は、句会によく似ている。お互い、異なる視点から異なる「読み」を提示しあい、相補しあって作品の「読み」を育てていくのである。ひとり机にむかう孤独な「読書」ではなく、共同で作品を「読む」行為である。
作品に対する評を決めるにあたって、たしかに独断のほうがブレがないかもしれない。
独断のほうが、選者にとって納得のいく結果がでるだろう。
しかしそれでいいのか。
それは俳句作品にとって幸せなことなのだろうか。
いわば、結社にとっての「主宰」のように、ひとりの「読み」が絶対化してしまうこと。
結社において「弟子」は「師匠」の選に、一対一に向き合い、師の「読み」と自分の価値観とをすりあわせたり、反発したりしながら、成長する。一対一の関係だからこそ、成長する実力というのも、あるだろう。
だが、結局、ひとりの選者がもつ許容範囲には限界がある。
だからこそ異なる意見同士をすりあわせながら作品を評価していくという手法は、俳句にとってきわめて相性がいいのではないか。
むろん、あらかじめ限られた数人による選考会による「読み」が正しいわけではない。
むしろ、絶対的評価がないことを証明するだけでしかないかもしれない。
しかし、それでよい。その「場」の結論は絶対ではないが、その「場」の評価としては最優先されるべきなのだ。
句会とはなにより、その「場」の参加者のものである。投稿者は甘んじてその「場」の結論を受け入れるべきだし、句会(選考会)以外の論理によって、その「場」の論理がゆがめられることは、あってほしくない。

「句会」というシステムを活かすためにも、その「場」での議論が重視されるべきだろうと思うし、また、特に総合誌の選考会においては、多様な価値観が活発に混じり合う「場」であってほしい、と思うのだ。




前回記事をわたなべじゅんこさんのblogに取りあげていただいてます。
http://junkwords.jugem.jp/?eid=247

多数決しましたよ、ということを見せたいだけなら、M-1ばりに点数化してみせるべきだと思いますね。それはそれで、それぞれの選者にとっては矜持を守れることでしょう。
しかし、それぞれが作品(漫才)をみせることがすでにエンターテイメントであるM-1と違い、俳句は「作品」と「読み」とが同時にあって、完結する。お互い顔をつきあわせて「読み」あう場が設けられている、そのことに積極的な意味を考えていくと、おのずから上のような結論になりました。お答えになれば幸い。
 

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