2010年11月21日日曜日
週刊俳句187号
本日リリースの 週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句 第187号 に、10句作品を掲載していただいてます。
角川俳句受賞者・山口優夢氏の10句、寺沢一雄氏の99句も読める、"充実"のラインナップ(笑)→(週刊俳句編集後記参照)
さて、今回せっかくの機会なので全句多行形式で揃えてみました。
『船団』で高柳重信特集を組んだときに一度だけ多行に挑んだのですが、それ以来すこしずつ、一行書で書いた作品のなかで多行にあいそうなものを組み替えてみる作業をしていました。
とはいってもなかなかうまくはいかないので、実際はほとんど書き下ろし状態。誰にも見て貰ってないので悩んだわりには結果は惨憺たるもの。かる気持ちで挑むと手痛い目をみるということを思い知らされました。
とはいえ、「多行」も俳句の一領域であってみれば、かるい気持ちでの挑戦も、やってみる価値はあろうというもの。
特に現在、多行を言葉遊びの面に特化して作品化しているのは管見の限りでは外山一機氏くらいしかおられないのではないか、と思われ、無意味系言葉遊びで揃えてみました。
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多行の多行たる所以である「改行」の作用は、読者に「切れ」を強制するところにあると思う。
一行であっても「切れ字」や「体言止め」などによりある程度は「切れ」のルールは共有されているのだが、どこにアクセントを置くかは結構読者に委ねられている。「切れ字はないけどここで一拍置いて読みたい」とか、そういう言葉は句会などでよく交わされるところであるし、逆に取り合わせの句に対しては「切れているけど、イメージが重なるから、なだらかに連続して読みたい」という評もよく聞く。
(たしか小林恭二の句会シリーズにもそんな発言があったはずだが忘れてしまった)
しかし、多行や分かち書きでは、作者の作った「切れ」が、改行や空白という視覚的なものによって強制的に働きかけてくる。
したがって、個々のイメージの独立性が高まり、飛躍したイメージを連絡させたり、異なるイメージをたたみかける手法などが有効になる。
一方でそれだけ読者による解釈の幅は狭くなるし、表記も面倒なので、はっきり言って句会には向かない。
詠まれる俳句(口誦される句)と、読まれる俳句(書かれる俳句)とを分割して考えれば、多行は圧倒的に「読まれる俳句」であり、というか、書かれなければ意味をなさない。
このあたりの特性を踏まえた上で、多行にしかできない遊び方を考えていきたい、というのが、ささやかながら今回の趣意なのであるが、……志は高くても実作が追いつくかどうかはまた別問題、と言うところがあるのではある。
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