2021年6月11日金曜日

【転載】京都新聞2021年3月16日 季節のエッセー(20)

 「ダブリンの桜」

飛行機にさえめったに乗らない私が、数年前の春、アイルランドへ行った。
観光ではなく、ダブリンの博物館が所蔵する日本の絵巻物コレクションの調査旅行に誘っていただいたのだ。
唯一のヨーロッパ経験がアイルランドというのも珍しいだろう。
関西国際空港からドバイ経由で二十時間余、古城と妖精伝説、そしてギネスビールの街だ。

ダブリンへ向かう飛行機で、隣に座っていた女性が話しかけてきた。
チャイニーズかジャパニーズか、と聞いているらしい。
ジャパニーズ、と答える。
ご多分に漏れず、私も英会話のできない日本人だ。何度も聞き直し、単語を並べて応対する。
どうやら女性の娘は日本でアートを学んでおり、東京に行ったことがあるようだ。たしか、ダブリンは寒いが雪は少ないとか、日本は雪が降るとか、そんな会話をした。しっかり答えられないことに罪悪感を覚えつつ、長い空の旅で、早速短い国際交流を経験したのだった。

ダブリンのホテルに着くと、庭で桜が咲いていた。
日本より開花がはやい。
アイルランドは暖流の影響で気候が穏やかだと、ガイドブックにも書いてあった。なるほど、雪も少ないのだろうと、女性の話を思い出した。

まだ夕方だったのでホテルを出て、石畳の町並みを歩いた。
大きな川の河口に近く、歴史的な観光名所も多いので、なんとなく小樽を思い出す。
街の本屋には、アイルランド出身のワイルドやジョイスの関連本が並んでいた。
コンビニのようなお店に入り、パンと飲み物を買ってホテルの部屋で食べた。

翌日から、ダブリン城の敷地内にある博物館で調査が始まった。
調査と研究報告、現地の研究者との交流会、そして、パブでの打ち上げ。数日しかない滞在期間はめまぐるしく過ぎた。

ある日の打ち上げの最中、現地で合流した同世代の友人から、春画をプリントした店を見たと聞いた。散歩しても見当たらなかったよと答えたが、あるはずだという。

その夜、ホテルまでの帰り道で、店を発見した。
日本食を出すらしいイザカヤで、北斎の春画を拡大プリントしたカーテンを下ろしていたのだった。なぜか柱には、中日新聞のロゴが貼られていた。
春の夜は、やはりまだ少し肌寒かった。


※文中登場するイザカヤさんは、
Yamamori Izakayaという名前で、日本風の居酒屋として観光客にも有名なお店です。

※ついでにダブリンの思い出を書いておくと、観光名所も行政も一箇所に集まっているところなので、きれいで住みよい感じ。治安が悪い時期もあったそうですが、私の行ったときはまったくそんな雰囲気はなく、物慣れない観光客にも優しい、歴史と文化を感じさせる素敵な街でした。ただ、夜はイカつい警備員さんがお店に出ていて、つまりそういう不安もある程度あるってことかな、と。
週末盛り上がったバーでビートルズがかかり、店中が合唱、これはもうお開きか、と思っていたら同じテンションのまま次の曲が始まり、店中歌い続ける。そんな楽しい空間も味わいましたが、パンデミックであのへんも大変だっただろうな。

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