これは、まったくの個人的な基準なのだが、作者の美意識とか倫理とかが前面に出ている俳句は、とても苦手である。「○○ありき」で作られている俳句、という気がしてしまうのだ。
「馬酔木」系の作家に対して、読まず嫌いが多いのも、おそらくそのせいだろうと思う。なんとなく代表句・有名句に気後れしてしまって、ほかの句を読もうという気になれないのである。
微妙なのが中村草田男で、暑苦しいなあと思いながら読んでいくと、あの腸詰め俳句と言われる詰め込み具合が、自ら美意識を壊しているというか、あふれ出ている感じは、好きにはなれないが笑ってしまう。
妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る 草田男
とかね、これはもう、笑うしかない。(妻抱かな、の上五だけで検索できますよこれ)
富澤赤黄男の切実さは、わりと好きだったりする。赤黄男なんて美意識のかたまりで、自分の好きなワードばかりで俳句を作っているような気がするけれど、全体の作品数がそれほど多くないからなのか、身を削っている感じがして、嫌いではない。
恋人は土竜のやうに濡れてゐる 赤黄男
切り株はじいんじいんと ひびくなり
このへん、まったくの好みと、先入観。
だから、意外と苦手に思ってる作家でも、腰を据えて読み直したら、好きな句がぽろぽろ出てくる、なんてこともあるかも知れないし、実際そういうこともある。いい加減なものだ。
一方、倫理が全面に出やすい俳句といえば、戦争(反戦)、原爆、震災(災害)、なんかがそうだろうと思う。
社会詠については同様の批判がよくなされるので、あえて付け加えることもない。思想ありき、道徳ありきで作った句は、ゴールが同じところに収斂していく感じが、どうも苦手である。
社会的な情景でも答えを言わない俳句があって、答えは明らかなのだけどあえて読者に投げている、という句は、やっぱり面白い。
戦争と畳の上の団扇かな 三橋敏雄
前へススメ前へススミテ還ラザル 池田澄子
メッセージ性の強い俳句は、俳句を使っているだけで結局散文で表明したほうがいいようなものだと思う。フォークソングなんかのなかには、メッセージ性をふくめて名曲とされるものが多いけれど、わざわざ極小詩型のなかで思想を込める必要はないと思う。
山口誓子の面白いところは、メーデー(労働者祭典)とか、クリスマスを詠んでも、明らかにそこに興味がないというか、思想的なものに入り込まずに、目にうつることだけで作り上げるところ。
メーデーの朱旗奪られじと荒るゝものを 誓子 「黄旗」
メーデーの道が揺ぐと子は思ふよ
柊がサラダにありし聖夜餐 「構橋」
ホテルの聖樹覗きし鈴に玉は無し 「大洋」
『季語別山口誓子全句集』(本阿弥書店)によれば、誓子は『凍港』時代にもクリスマスの句をいくつか作っているが(昇降機聖誕祭のとつくにびとと、わらべらに寝ねどき過ぎぬクリスマス)、「柊が」の句は昭和28年頃に作られたもの。親族の菅沼家でふるまわれたクリスマス晩餐会で作ったものといい、近所の教会で葉書大のカードに書いて配られたこともあるという。
菅沼家は、義弟山彦(波津女の弟)の妻、訓の実家。カトリックの信者であった。
誓子には自分をキリストに擬したような句があるが、
万緑やわが手のひらに釘の痕もなし 「青女」
昼寝の中しばしば釘を打ち込まる
信仰心というより強烈な自意識、自尊心のあらわれという感じで、倫理とか美意識とかとは違う気がする。変な句だと思うが、押しつけられている感じはしない。
雪嶺の大三角を鎌と呼ぶ 「方位」
になると、自分の見立てに酔ってる、自己陶酔の感じがするけれど。
美意識、倫理の枠組みで作られた句は、一般論でいうと枠組みのなかに収まってしまって、もちろんある程度「美しい」し、「意義深い」と思うこともあるが、しかし、結局はそれだけのものだ。
それを素材として扱うことは否定しないが、ストレートに、正面から扱った作品には、あまり興味が持てない。一句ならかろうじて「かっこいい」「おもしろい」ものでも、まとめて読むと息苦しい感じがしてきて、いけない。
難しいのは、BL俳句とか○○俳句といった、一種の「題詠」も、ある程度完成した美意識を前提にした句になってしまう可能性があるということ。
ふるい話だが、かつて田島健一さんがしたBL俳句批判は、ここにつながっていると思う。
苦手、というより、その都度、残念だな、と思う。
震災俳句も、吾子俳句も、BL俳句も、そこに意味が固定する、という点でことごとく残念だ。
これに対して私はかつて、「「BL俳句」のごく一部にしか有効でない」と述べた。
この意見は変えるつもりはないけれど、同時に、私のようにBLに対して思い入れが少なく、バリエーションが少ない人間は、固定された美意識で書いてしまう。田島さんは「意味」という語彙を使っているけれど、要するに俳句を多義的に読むことができなくなる、ということは、とても貧しい世界に思えてくる。
BL俳句の表現が「まだ全然実現されていない可能性がいくらでもあるのではないか」(関悦史の発言『庫内灯』1所収)のかどうか、またそうであるとして今後実現される可能性があるのかどうか、は、私よりもその表現に自覚をもつ作り手たちに委ねられるが、現在のBLジャンルの豊穣を横目に眺めるとき、確かに、思いがけない表現が生まれる可能性が今後ありうると思う。
なんの話だ。
つまり、美意識や倫理を前提とした句は苦手だが、その前提を持ちながら、前提を逸脱したり、くつがえしてしまったりする表現を期待したい、ということ。
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