2014年9月28日日曜日

短評:『池田澄子百句』


近刊『池田澄子百句』(創風社出版、2014)のあとがきで坪内稔典は次のように書く。
池田澄子が俳句に関心を持ったのは三十代のある日、そして俳句雑誌に初めて俳句を投じたのは一九七四年三十八歳の時だったという(本書掲載の「池田澄子略年譜」)。そのときの句は、 
 死ぬ気などなくて死に様おもう秋 
であったというが、この句からいわゆる澄子の代表作、たとえば
  じゃんけんで負けて蛍に生まれたの
 
 生きるの大好き冬のはじめが春に似て 
 ピーマン切手中を明るくしてあげた 
までの距離は遠い。遠いというより、とてつもない飛躍を澄子は果たした、というべきだろうか。・・・(略)・・・「死に様おもう」から「生きるの大好き」への変換、そこに澄子の大飛躍の秘密がある、と私は思っている。  
                 坪内稔典「あとがき」『池田澄子百句』 

興味深く思ったのは、私の脳裏に、池田澄子が塩見恵介の句を評した、次のような言葉が刻まれていたためである。
「今日自殺決意す・死ねず・鳩を飼う」(勝手なことを言えば、「死なず」と言って欲しいところ)
これは塩見恵介の第一句集『虹の種』に付された栞に寄せられた文章。
もう少し正確に引けば、「議論終え湯豆腐あつししかし食う」と「今日自殺決意す・死ねず・鳩を飼う」に「共通した展開の捩れ」を指摘した文章である。

「死ねず」という言葉には、死を願うふりをしながら結局その勇気を持てない、敗残者としての自嘲がある。
「死なず」の強靭で意志的な男性像は、なるほど人生観としては好ましいが、「鳩」に配する人物としては、不釣り合いだろう。
無気力で成り行き任せな、自己愛と憂愁にある青年像として、やはりここには「死ねず」が相応しく、「鳩を飼う」行為の奇妙さへ、捩れながらつながっていく。
「・」記号による句切れなどの視覚的な効果も含め、塩見の一句は、技巧的な展開力によって類型的な青年像を脱している。むしろ池田の評言こそ類型的な人生訓に似かねない。
だがこの不適当な評言は、その不適当さによって、印象的なものとなっている。

「死なず」、「生きるの大好き」なのが、池田澄子なのだ。

  屠蘇散や夫は他人なので好き
  いつしか人に生まれていたわ アナタも?
  青嵐神社があったので拝む
  八月来る私史に正史の交わりし

池田句の健全さは、ともすればおちいりがちな文学的ポーズや、説教臭い人生訓から、あやういところでまぬがれる。
きわめてメッセージ性のたかい句でありながら、それを固定させない、広やかな地平に、一句が屹立していく。
現代俳句の「広さ」を、もっとも体現する作者の一人といえよう。



『池田澄子百句』は坪内稔典と船団メンバー5人(中之島5*)の編集。

文庫サイズの手軽な入門書として定評のある創風社出版の「百句」シリーズの最新刊である。

発表の句集5冊から編者によって厳選された100句について、船団メンバーによる鑑賞が付されている。初出の句集名が明記されているのも便利。
池田澄子俳句については、先に『シリーズ自句自解Ⅰ ベスト100池田澄子』(ふらんす堂)があるが、作者による自解と読者の立場からの鑑賞とを見比べてみるのも楽しいかも知れない。

軽便なイケスミ・ワールドの入門書として、おすすめである。

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* 「坪内稔典の俳句塾」(朝日カルチャー中之島)受講生5人。香川昭子、久保敬子、芳賀博子、陽山道子、山田まさ子の5人。芳賀さんは「船団」誌上に連載をもつ川柳人だが、正式には会員ではないそうだ。





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