2014年7月13日日曜日

補足、川柳のこと


前回記事の、川柳の話題について、補足をすこし。


前回、私は川柳は俳句にくらべ「一句の方向性を規定する傾向にある」と指摘した。

川柳について私は傍観者であり、また接した年数も浅いので実感的にわかっているわけではない。それにもちろん、川柳といっても現代俳句と同様の歴史をもち、進化形を有しているわけなので、一概に言えないことは当然である。
にもかかわらず、次のような川柳を見ると「方向性を規定する」傾向があることを改めて思わざるを得ない。

  首括る前にオシッコしておこう   渡辺隆夫



一句にふくまれた批評性は明らかであると思う。
死と生があまりにも生々しく地続きであるところの諧謔と不穏、穿って言えばそのことに無自覚である(作者を含めた?)読者へのシニカルな視点など、たしかに川柳である、と思う。
つまり、川柳の読みは、ある程度まで作者の側から規定されている。

俳句がここまで読みの方向性を規定することは、たぶんあまり好まれない。

これまで何度もくり返されてきたとおり、俳句の読解には、余白を埋める読者の能動的参加が不可欠とされる。一句はむしろ、読みの方向性を規定せず、「客観」的で具象的であることを好む。
時に、「それがどうした?」とツッコミたくなるような、意味から離れて投げ出されたような俳句こそ、(好き嫌いを離れて乱暴に言えば)もっとも「俳句らしい」。

日ごろ柳俳一如を唱え、現代において川柳にもっとも近い詠みぶりを得意とする筑紫磐井氏の作品でも、やはり作者による操作性は薄いように思う。

その結果、「筑紫磐井の句は、悪意なのか善意なのかよくわからない」「玉虫色のバランス」を保っているわけである。(スピカ よむ 「登山して下山してまた明日がある 筑紫磐井」

断っておくが、これは「川柳」読解の自由度を妨げるものではない。

方向性が規定されたからといって、渡辺の句がそのまま容易に読み解けるものではない。


簡略ながら如上のように「川柳」の傾向を測ったところで、もうひとつ、「川柳」と「俳句」が近似していく、という問題がある。
いや、そもそもそれを問題ととらえるかどうかも問題だが、現代の俳句が、どちらかというと作者の心象を核に形成する傾向があること、季語への執着が薄くなっていること、などの諸条件をあげれば、「川柳」と「俳句」との接近は、当然ありうることである。

「俳句」側に立つ私からすれば、接近して「川柳」のいいところを拝借・吸収できればそれでいいと思うのだが、どうだろう。

世の中には自分の俳句を「川柳的」と言われると、おとしめられたように感ずる人もいるらしい。おそらくそれは「川柳」を「サラリーマン川柳」「新聞川柳」だけで判別しているからだと思うが、そんな低レベルで不毛な掛け合いはさておき、どうせやる人の少ない定型詩型の世界なのだから、お互い生き残りのためには、いい戦略的互恵関係を築きたいし、それで拓かれる地平もあるだろうと思う。


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