図書として刊行されているものでさえめまいがするほど膨大だが、これに加え『俳句』『俳句研究』などの総合雑誌、さまざまな文芸誌・学術誌・結社誌・同人誌において発表される文章のが、この数年に限ってもどのくらいあるのか、考えるだに恐ろしい。
研究目的でこれらを追うときには、まずCinii や国文学研究資料館論文目録データベースなどの検索サービスで当たりをつけ、国立国会図書館や俳句文学館図書室、国文学研究資料館などの蔵書を頼ることになる。
しかし、これらの機関は東京近郊にいれば簡単に公共利用できるとはいえ、地方ではなかなか活用できない。
関西ではかろうじて国立国会図書館関西館や虚子記念文学館、柿衛文庫などの蔵書を利用できるが、いずれもゆかりの俳人の寄贈図書に頼っているため網羅的な収集・保管は目的としていない。
『俳句』『俳句研究』の二誌くらいなら、県下の中央図書館、あるいは大学図書館でも所蔵されている可能性が高いため利用サービスをうけることができるが、それ以外の結社誌や同人誌はほぼ不可能である。
コレ、と狙いをつけて各図書館に問い合わせて、国会図書館などから複写・郵送サービスを依頼するしかないが、外れたとき(期待ほど面白くなかったとき)のガッカリ感は相当なものだ。
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これら紙媒体に対し、ウェブ媒体が圧倒的に有利なのは、まずその即時性、加えて、意図的に削除されないかぎり簡単に検索することのできるアーカイブとしての機能である。
「週刊俳句」や「俳句空間」のように、多様かつ上質なコンテンツを取りそろえたアーカイブを、誰でも無料で、どこからでもアクセスできる、というのは、紙媒体では考えられない。
むろんそれも、多くは民間会社からのサービスを前提としているため絶対ではなく、たとえばある日突然googleやYahoo!がサービスを停止したら、たちまち雲散霧消しかねない。
この点、紙媒体なら、現物さえあれば必ずどこかに保存・管理はされているわけなので、安心安全といえる。
(災害や時間の経過で現物自体が消失・散佚する可能性もあるが、一般に全てが一度に消えることは少なく、どこかで誰かが保存している、ことが多い)
とはいえ、「思い出したとき」「その場で」簡単にその文章に当たれる、という利点は、なんにしても圧倒的である。
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昨年読んだ俳句の評論のなかで印象的だったものといえば、まず【俳句時評】保見光成の「俳句」を信用する / 外山一機だった。
保見光成。
こう書いても、もう誰のことか、よく思い出せない人も多いだろうが、昨年七月に世間を騒がせた「山口県周南市金峰の郷集落における連続殺人・放火事件の容疑者」である。
当該記事は、容疑者・保見光成氏が現場に残した「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」という「俳句」について論じたものである。
この五・七・五の文字列を「俳句」と見なすかどうか、という点も異論は多いだろう。
しかし、執筆者である外山氏の意図は、むしろこれが「俳句」として世間に受容されたこと、少なくともこれが「五・七・五」という定型律をもって発表されたものであること、そのことを、五・七・五を「定型」の名で呼び、日本人になじむ音律・詩型と呼び習わしていた「俳人」たちが引き受けるべきではないか、ということだろうと思う。
そのうえで外山氏は、金子兜太氏の提唱するさまざまなキャッチフレーズに対し、次のように疑問を投げかける。
「原郷」にせよ「本能」にせよ「生きもの感覚」にせよ、こうしたものの共有を信頼してやまない兜太から最も遠い場所にいるのが保見ではなかったか。・・・兜太を根底のところで支えている肯定的な人間観とはあまりにも異なる場所から立ち上がっているこの句を前にして、僕はむしろ兜太の言葉に不信感さえ覚えるのである。私に換言するならば、このとき、外山氏が違和感を示しているのは、金子氏の背負うところの「俳句」なり「人間」なり、要するにその巨大すぎる、ひどく肯定的な全きもの、統一的な、共有基盤幻想のような、そのようなものの存在感、なのである。
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近時発表された【俳句時評】俳句の「後ろめたさ」について / 外山一機もまた、上記にかかわる問題意識が丹念に記された、興味深いものであった。
外山氏が主に拠ったのは、関悦史氏が照井翠氏の句集について評した次のような評言である。
ここでの句作は、大災害の表現不能性に直面することではなく、涙を誘う程度には理解・受容の可能なものへと震災をスケールダウンしていくことにひたすら奉仕しており、この句集の達成と限界はいずれもそこにある。
あわせて外山氏があげるのは、ドキュメンタリー作家・森達也氏の言である。
事件や事故、そして災害は、すべて「人の不幸」が前提だ。愛を訴えるとか絆を確認するとか後世の教訓にするとか、そんな綺麗ごとで自分や誰かをごまかしたくない。状況が悲惨であればあるほど、記事や映像は価値を持つ。だって人は人の不幸を見たいのだ。そして僕たちは、人のその卑しい本能の代理人だ。引用は外山氏の文に拠る。
ここに語られる心情は、事件報道一般に関する言説である。もっと極端には戦場写真にも通じることだろう。だが、「事件」に取材した「句」を詠むとき、もっと言えば、「他者の死」を句に詠むとき、「俳人」たちは、この意識をもっているだろうか。その傲慢さに、自覚的であっただろうか。
写真やドキュメンタリーだけが卑しい行為で、「俳句」や「文学」だけがそれを免れているはずがない。これはその作家本人が被災していようがいまいが、を加工して「作品」を生み出す、創作営為そのものが背負うべき、根源的な「後ろめたさ」である。
外山氏にせよ関氏にせよ、「涙に奉仕させる」句を作る、その営為自体を直接批判していない。その自制的筆致には留意してよい。実際(議論を巻き起こした長谷川櫂氏の句集は棚上げとして)、照井氏の詠作によって不快感を持つ読者はあまりいないと思う。
しかし、そのことによって創作にまつわる「後ろめたさ」は、少なくとも消失すべきでないし、そのことに自覚的であろうとする外山氏の態度はきわめて健全で、信頼すべきものとして映る。
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