2010年5月16日日曜日

問題

(承前)

問題が、ズレている。

ズレているからこそ、「反発」にも見えるのだろうが。


先日紹介した上田さんの記事に、時評担当のわたなべさんがコメントを付けている。
同じ記事に付けられた、さいばら天気氏のコメントに、またわたなべさんがコメント返ししているのだが、問題がどんどんズレまくっている。

なぜズレているか。

上田氏は言う。

ていうか、どういう句を書くことが、彼を、読者を、ほんとうに自由にするのか、っていうことですよね、問題は。
小倉氏は言う。

『未踏』でいうならば、冒頭にあまりにも大きな意味を持つ句があるために、句集全体が引きずられてしまう感じがするのです。そして作句年順に進む。そうすると、句集の評論や感想などを読んでいると視線がみな同じ方向からのものになってしまっている。多くの人が同じように「いい句集だ」と言うのだから、いい句集なのだろうけど、それは実は作者にとって本当に幸せなのだろうかなと感じました。

2010年5月11日

二人の視点は、どちらも同じ方角を向いている(ように見える) 。
小倉さんにしても上田さんにしても、句集のなかから一句の表現を独立させて読む姿勢をもって臨んでいるのだし、またその一句の表現ができるだけ自由に読めることを望んでいる。 基本的には上田さんは小倉さんの意見に首肯し、同じ視点で句を見ているのだろう、と思う。
(もちろん、小倉さんは揶揄まじりに、上田さんのほうがより中立に、良い点悪い点をあげている、という性質の違いはある。)

そこに、さいばら氏のコメントを重ねる。

拝読した記事から、好悪の如何はうかがえるものの、その先がない(ように読めた)ので、興味の対象には入ってきませんでした。

最後に、信治さんの言う「どういう句を書くことが、彼を、読者を、ほんとうに自由にするのか、っていうことですよね」という根源的な問題については…「偶然」と幸せな関係にあるほうが、自分を自由にすると、私は信じています。
「反発」を呼んだ主な問題はこのあたりにありそうだ。

さいばら氏は当初、「興味深く「なく」拝読」 というツイートを発信しており、それを上田さんが否定的見解ということでまとめて記事に引用し、さらにそのためにわたなべさんがコメント欄で絡んでいるのだがそれは問題が拡散するので措いておいて、私が考えてみたいのは、なぜそもそもさいばら氏の興味に触れなかったのか、つまり小倉・わたなべ両氏の対談が、「好悪の如何」だけに見られてしまったか、なのだ。
(二人の書く文章はたしかに、ややネガティブ・キャンペーンめいた印象を与える性質のものだったかもしれないが、孕んでいる問題点はそこだけではない)

小倉さんが高柳さんの句に対して述べている言葉を引いてみよう。

新鮮さを期待して句を読む私としては、ちょっと物足りない句集であった。それは彼の句の多くは、すでにある世界を少し、いやかなり上手く塗り替えた印象がある。

 入れかはり立ちかはり蠅たかりけり(191p)
一読してなるほどと思うのだが、結局それで終わる。こういった季語はすでに我々の中にインプットされていて少々上手く詠まれても、そこから新鮮さを感じることはほとんどない。このような季語の前提をもとに次へ進まねばならない。例えば取り合わせで新しい世界を作り出すなど。
ここでふと思い出すのは、昨年「船団」のイベントで高柳さんが語っていた、「季語」を自分たちの言葉で更新しつづけていく必要がある、という言葉だ。高柳さんの季語観はある意味でいうと正統派であり、季語を使う作家として、素直に見習うべき倫理観である、といっていい。
ただ、高柳さんは、たしか「更新」という言葉を使っていた。
「更新」のためには、当然だが、現在ある「季語」の「本意」を知らなくてはいけない。
その、本意を知る、レベルに、高柳さんと小倉さんとでは、かなりの差違があるような気がする。

たとえば、
神野紗希さんのblogで問題にされている、

六月の造花の雄しべ雌しべかな  克弘

の「六月」。
この「六月」の働きをきっちり読み分けることのできるひとは、それはかなり季語に関心をもち、また高柳さんの句に対しても誠実に読もうとする姿勢の読者、いわゆる「精読者」的な存在だろう。

小倉さんやわたなべさんが想定している読者は、おそらく「精読者」ばかりではない。
通りすがりの、ちょっと覗いたひとでも立ち止まって、「へぇ」と面白がってくれるような、そんな俳句こそ、彼らの(そして「船団」に共感する多くの会員が)目指している俳句なのだ。

もちろん、それだけ (外に広がる俳句だけ) が俳句でなくてもいい。
だが、それもまた俳句であって、しかも俳句のかなり大きな一面なのだ、と思う。



前出の紗希さんのblogでは、その後もコメント欄で上田さんと紗希さんのやりとりがあり、問題が深まっている。(
週刊俳句記事コメント欄にもリンクがある)

的はずれかも知れないが少し思うのは、高柳作品の先行する作品世界への親和性の高さ、が、よく出るとちょっとズレて面白い作品にあんるし、悪く出ると「天井の見える」作品になってしまうのではないか。
そのことは以前、自分なりに指摘したつもりである。 →
拙稿「世代論とか」

たとえばその点において、外山一機さんの作品などとよく似た傾向を持っているといえるだろうし、また表出の仕方、見える「天井」の模様はずいぶん違うけれど、北大路翼さんの作品なども同方向を向いている可能性がある。
いずれも、結構マジメなエンターテイナーである。
 

0 件のコメント:

コメントを投稿