2010年5月9日日曜日

高柳さんのこと。

 
が 
時評「俳句の力」 で話題になっていることを、先日お伝えした。

気をつけて見ているせいか、それとも私がたまたま目にするのか、これまでの時評欄よりも、賛否両論、話題になっていることが多いようである。
いくつかは、少々心ない発言があったり、不毛でとるにたらないものもあったようである。
そのなかで、今日アップされた上田信治さんの記事 を読んでほっとした。いつもながらフラットな視点で、しかも的確に問題点を浮かび上がらせてくれている。

「船団」組の感じたキュークツさは、作者が、あらかじめの意図によって、一句と読者の運動をコントロールしてしまう(できてしまう)ことの、結果のような気がしてならない。

俳句も文学も、たぶん「好き嫌い」の要素が大きい。
ただ、その「好き嫌い」を、「好き嫌い」でなく説明することは、難しい。



「船団」は、言っておくが所謂「結社」ではない。
坪内稔典氏を代表におく俳句グループであり、みんながみんな坪内さんの弟子というわけではないし、ステレオタイプな結社のようにすべての弟子が師匠の言うがままに動くような団体では断じてない。従って、所謂「船団」調な俳句、というものは、たしかに存在し、それは坪内氏の作風から波及していく方向にあるものだが、まったく違う俳句も共存しうる環境にある。
ただ、やはり「季語」や「定型」といった約束事に対しては、かなり寛容に捉えている人が多いのは間違いない。
その入り口の広さ、ハードルの低さが俳句の魅力である、というのが、正岡子規に学ぶ坪内氏の立場だからだ。すなわち、「季語」の本意、という先行する知識などに囚われることなく現在ありのままの立場から季語を使う「写生」の立場、である。

夕顔の花といふものの感じは今までは源氏其他から来て居る歴史的の感じのみであつて俳句を作る場合にも空想的の句のみを作つて居つた。今親しく夕顔の花を見ると以前の空想的の感じは全く消え去りて新たらしい写生的の趣味が独り頭を支配するやうになる。

よく知られた、虚子「俳話」の、道灌山での子規の言葉である。

(この稿、続く。……予定)

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