2010年5月1日土曜日

時評とか。

 
「船団」会員、山本純子さんのコラム「はるなつあきふゆ」が、朝日新聞夕刊で始まった。
たぶん関西版だけだと思うが、句集『カヌー干す』が写真入りで大きく紹介されたり、注目度が高まっている。
詩人であり学校の先生であり俳句作家である山本さんは、本当に 「ことば」の活力というか生命力というものの存在をよくご存知の方で、詩にも作句にも文章にも、そのあたりの呼吸がみなぎっている。
コラムは全8回予定らしい。楽しみだ。



小倉喜郎さん×わたなべじゅんこさんの時評対談、現在のテーマは、昨年話題を呼んだ高柳克弘さんの第一句集『未踏』。 → 
時評「俳句の力」
案外というか予想通りというか、高柳さんの句に対する違和感の表明がめだつ。

 ことごとく未踏なりけり冬の星(13p) 
『未踏』の始まりにこの句を置く感覚があり、またそれを当たり前のように受け入れる俳壇がある。この感覚では句集が面白くなるはずがない。そもそも詩を志すことは「未踏」の地をゆくことであり、だからこそ表現活動をやっていると言っていい。表現活動の原点なのだ。そのことを今更句集の冒頭に示す必要はない。

小倉喜郎 2010年 4月30日

特に高柳さんが取り上げられたのは、時評的にいま話題になってわかりやすい人が選ばれた、という感じがするが、高柳さんの最大の特徴である、ちょっと高踏的、大時代的なロマンティズムに対する違和感という面では、なるほどと思うところが多い。
ただ、いずれにしても、お二人の批判は一句ごとの鑑賞から発せられているので、高柳さんの句集全体の評ではない。それを目的にしていないのだから、当たり前である。
小倉さんが挙げている「ことごとく」にしても、この句に魅力がないかどうか、はまた少し別。 この句が高柳克弘の代名詞的な扱いをうけるのは、まさに句集冒頭にあえて「原点」を掲げてしまう、伝統的表現行為への意欲的なモドキないしナゾリ、手あかが付いて見捨てられてしまった「青春」の復権、など、実に「戦略」的な句だから、ではないだろうか。この時代にこの句を出すのは、もちろんそこまでの意図と計画性を読み取っていいだろう。そうした、「句集」としての読み、背景となる作家の意図にまで踏み込んだ読解もまた、一句の楽しみ方としては充分アリ、だと思う。
しかし、上のような読みができるのは、俳句に対して充分な興味関心を持っている人間だからではないだろうか。
そのような自問を持ってしまうと、たちまちこの句の魅力は半減する。いや、魅力が半減するというより敷居が高くなる、というべきか。


うーん、だからどうだ、というわけではないのだけれど、お二人の対談に対して私は共感もできるけれど、だからといって高柳さんの句集から受けたのは決して不快感や疲労感ではなかった、ということだけで、その感想の行方をどこに帰着させればいいかがわからない。

さてさて、「みんな違ってみんないい」相対主義より先に、どこにいけばいいんだろう?
 

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