坪内稔典『モーロク俳句ますます盛ん 俳句百年の遊び』(岩波書店2009.12)
がおもしろい。
近著にしては硬い文章だな、と思ったら、初出は1981年、『鑑賞現代俳句全集第一巻』(立風書房)であった。時間性を抹殺する俳句形式の構造に、作者の精神の空白状態が交叉したとき、そこに「俳」とも呼ぶべき独自の「表現」が成り立つ-これが、山本(引用者注、山本健吉)の虚子論が私たちに教えてくれることである。つまり、俳句の特殊性は、「季題」でも「物と言葉の二重構造」でもなく、形式と作者の二つの「空白」が交叉する場所にあるということになろうか。
俳句形式が時間性を抹殺する構造だと言うことは、そこではことばによる「表現」は本来的に成立しないということであり、換言すれば、形式のうちに「空白」をかかえこんでいるということだ。……特にこの「空白」は、作者の精神(意識)の「空白」状態に触れたとき、たとえば虚子がそうだったように、もっとも波紋を拡げる。「戦後俳句のゆくえ」前掲書
興味深いのは、およそ30年も前の文章を、自ら「私の俳句論の三部作をなす」とする本書に収録した、その意味だ。坪内氏は上の文章に続き、俳句形式が先験的に孕む「空白」に意識的に向き合い、自分の意識の「空白」と交叉させた作家の成果として、
夜のダ・カポ/ダ・カポのダ・カポ/噴火のダ・カポ 高柳重信
を挙げている。
前時代の作家たちが意識した「主体」や「表現」や「社会性」などと別に、坪内氏が高柳重信の「敗北主義」から継承した「空白」への着目というのは、何なのか。また、坪内氏が「戦後俳句のゆくえ」から30年後の現在に見ている風景はどういったものなのか。すなわち、我々の目の前に現れる俳句を、どう見ていくか。どう作っていくか。
もう一節、同書から、今度はもう少し新しい文章を引く。
最近、私は、
たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ
という自作を興味深く眺めている。「ぽぽのあたり」についていろんな読み方が行われており、作者としてははっとしたり驚いたり。それは、今までは気づかなかった自分の一面を見る感じ。この句を通して連衆の力を感じているのだ。
もちろん、連衆の力だけを信じているのではない。連衆の力を引き出すには、おそらくいろんな個人の力がいるのである。恐ろしいことだが、たとえば深い孤独感などがその個人の力。「連衆いろいろ」、前掲書。初出2001年
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