2010年4月12日月曜日

近況

 
落選のお知らせがいつまでもトップなのは気分が悪いので、近況報告。

気づかないうちに新年度が始まっていて、あれよあれよという間にもう十日。
うにゃらうにゃら、俳句も本業も続けていますが、最近はそれにまつわる雑用のほうが多い気がする。ちょろちょろちょろちょろ、お金が出て行くばかり。

最近、ネットやらリアルやら、古本屋で坪内稔典先生の旧著をつづけて購入する機会にめぐまれた。今読んでいるのはこの二冊。

 『過渡の詩 現代俳句行為論』牧神社、1978年9月

 『弾む言葉・俳句からの発想』くもん選書、1987年2月

『過渡の詩』は評論家・坪内稔典の初期の記念碑的作品として有名で、私も「過渡の詩」というキーワードはよく耳にしている(「過渡の詩」を盛り込んだ坪内氏の文章も読んだ記憶がある)。が、まとめて読んだのは実ははじめて。少々当てが外れたのは、「現代俳句を過渡の詩と位置付けた」論考自体がこの書には収められておらず、「過渡の詩」である俳句を「行為する」とはどういうことか、という各論が続く。やっぱり『正岡子規―俳句の出立―』から読み始めるべきだったか。

しかし、今の坪内先生の文章からは想像できないような文体で、難解と言わないまでもどこに力点を置いて読めばいいのか、手探り状態で読んでいる。
とにかく「現代俳句」が置かれた状況に八つ当たりのように苛立つ論者が印象深い。

一つの作品が、一つの世界―言語空間を獲得して成立することはいうまでもない。そういう意味からは、俳句という詩型が「私」が世界を獲得する形式として働くことは疑うまでもない。ぼくがいま問題にしていることは、俳句という詩型が、「私」が世界を獲得することにおいて充分に根源的であるか、充分に鋭利な働きを示すかどうかということである。……Ⅰで考えたような、何者かに身をゆだねるという近代の俳句の性格、その性格を形成した根本のものは、詩型に即して考えると芭蕉の俳諧の残した問題にまでさかのぼる。もちろん、そこまでさかのぼって、「座」や「連句」を回復しようと叫んでもどうにもならないので、問題は、この詩型が、「私」が世界を獲得することにおいて充分に根源的な働きをするかどうかである。

一方で『弾む言葉』のほうは、エッセー集なのでもう少し柔らかい。
おもしろいのは、よく知られたエピソードだが「ネンテン」という呼び名に抵抗が無くなってきた、という話。

たとえば僕のところにやってくる手紙の表書きに「念転」とあったりするわけです。それでだんだん諦めてきまして、数年前、思い切って自分で「稔典(ねんてん)」と名乗ってみたんです。そしたら意外というか、ネンテンと名乗るとちょっと重厚な感じがしましてね。

「俳号という仮面」


ネンテンでもいい、と思うようになったのは、去年、四十代に入ってからである。ふと、中年以上はネンテンがふさわしいかもしれない、と思ったら、急に肩が軽くなり、言動もすこし大胆になった。

「改名の気分」 初出昭和60年

エピソード自体は最近のエッセーでもよく書いておられるが、ああちょうどこのころだったのか、という「当時」を初めて知ったのは収穫。
言ってみれば、評論家・坪内稔典から俳人・坪内ネンテンへの転換期なのである。
(自分自身で認めてしまっているくらいだから、厳密には転換期としては終わりのほうなのだろう)
他にもこのエッセー集、現在のネンテン先生につながるタネが満載でとても興味深い。

『過渡の詩』から『弾む言葉』への9年間、「かつての新人」坪内稔典がどんなことを考えて現在「ネンテン先生」になっていったのか。
ちょっと、本腰入れて読み直してみたくなってきている。



私自身は「船団」に入会したのはごく最近で、しかも直接的に指導を仰いだのは高校時代の塩見先生のみである。そのせいで自分の意識ではあまり「坪内門下」なつもりはない。ただ、今の自分の立ち位置を振り返ってみると気になる俳人の筆頭は、やはり坪内稔典だ、ということになる。今、自分が抱えている問題に、もっとも興味深い形で回答してくれているのが坪内稔典―塩見恵介の二人だからだ。
坪内先生は自身が俳句界きっての論客なので、かえって「坪内稔典」を論じる、というスタイルのものはあまりお目にかからない。といって私がその任を担うというほどの気負いも責任感もないのだけれど、ただ、そのような志向性と、問題点の指摘くらいは、やっておいて損はないかもしれない。

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