作家の言葉
和歌は、五七五七七。
俳句は、五七五。
和歌の方は、定型でない「仰天和歌」ではあるが、なんとか五七五七七あれば、物語を盛り込むことができるのだが、俳句の五七五は、どうにもならんのじゃないのと思い込んでいたのかも知れない。
しかも、あの季語があるじゃん。
季語をどうすんのよ。
季語、邪魔じゃん。
夢枕獏『仰天・俳句噺』文藝春秋
小説を書くことをやめてしまった氷室冴子が、まだ言葉による創作というか、なにものかにこだわっていて、しかし、それを発表する気がない。ないけれども、俳句をやっている。どんな俳句か。それはぼくも知りたかった。
俳句は、ぼくらのように言葉にこだわる職業の人間が、最後にすがることのできる文芸ではないか。
夢枕獏『仰天・俳句噺』文藝春秋
歌人の言葉
川野(里子) こうしてみると、短歌というのは、見えない何かに対する呼びかけであり、そして、その答えに耳を澄まし、言葉を尽くして詠み終えて、そして沈黙をするしかない。その沈黙の中で答えを待つ死刑なのだということが思われるのです。つまり短歌というのはダイアローグなんじゃないか。例えば平安時代のような、恋文を出してその恋人から答えを待つと言う形式が原型ですね。しかし、そのような直接の相手を持たなくなった戦後という時代、現代短歌自体を、私達は言葉を尽くしてなにかを表現し、その答えを、耳を澄まして待っているのじゃないか。
川野 私は、俳句は片言や断片ではない、完璧な詩型だとばかり思っていました。・・・・・・むしろ、短歌こそ片言なんじゃないかという気がするんです。返りが来るかどうかわからないこだまの様なものに、耳を澄ませ続ける。そのために七七が着いているというふうに思っていて、だからこそ短歌に詠嘆が多い。
「シンポジウム「岳」45周年記念 短詩型文学への期待」『俳句』2023.10