2009年12月20日日曜日

かさま & ゆうしょりん


笠間書院が出している無料PR誌『リポート笠間』50号がおもしろい。
記念特大号と言うことで、分量も内容も分厚いが、なかでも座談会は読み応えがある。
座談会のテーマは「「日本」と「文学」を解体する―既成概念を崩し、新しい文学像をどう作るか―」参加者は、ツベタナ・クリステワ氏、ハルオ・シラネ氏、染谷智幸氏、錦仁氏、司会に小峯和明氏。
司会の小峯氏の問題提起を引いておく。

小峯 昨今、日本文学をはじめ人文学の危機が叫ばれて久しいわけですけれども、ただいたずらに危機だとだけ言っていても仕方がないので、逆にその危機感をテコに研究のあるべき方向や研究のアイデンティティを問い直す機会として捉え直していくべきだろうと思います。言い古されたことではありますけれども、やはり今後のあるべき研究の動向としては国際と学際、この二つを鍵とするしかないのではないだろうかと考えています。
このあたりは小峯氏の年来の主張であり、実は昨年、私が関与した講演会でも同様の趣旨で熱い講演を頂いたことがある。
小峯氏はいわずとしれた説話文学、中世文学研究の第一人者「国際」「学際」「言い古された」キーワードだが、氏の建設的なところは、ただ別ジャンルと交流すればいいというのではなく自分自身のもつ「日本」や「文学」のイメージを解体し、新たな地平から研究を再出発させていく、その道筋の確かさにある。小峯氏の成果は『説話の森』(大修館書店→岩波現代文庫)、『説話の声』(新曜社)、『中世日本の予言書』(岩波新書)などの一般書としても出されており、いずれも刺激的なのでご一読をオススメする。

ゲスト的な立場のシラネ氏、クリステワ氏の二人も、まさにその「解体作業」、つまり相対化の体現者のような方々。5人の発言はいずれも挑発的、示唆的で、座談会とはかくあるべし、というほどおもしろい。詳しくは店頭なりで読んでいただくことにして、ここでは、はからずも俳句(俳諧)や句会について触れた部分についてのみ引用することにする。


シラネ 今、文学というと自立したテクストというふうに考えるけど、そのような近代的な発想を捨てて見直す、和歌の重要性がはっきりして来る。和歌は一つはプロセスなんです。特別な空間ー人間同士が交流できる空間を作るジャンルです。要するにつくる過程で、そのつくる過程においてモノが大事になってくるんです。和歌はただ詠むだけでもないし、ただ書いたものというのでもなくて、紙の上に筆で書く。それは書と料紙ですね。この二つがないと、和歌にならない。物質文化と和歌は非常に結びついているんですね。・・・和歌は、短詩形で、書かれていないことがある意味では書かれていることより大事です。そのような「開けた」和歌は、ほかのもの(絵画、小袖、紀行文、日記など)と組み合わせやすい。いろいろなモノとドッキングができる多様性のあるジャンルです。・・・和歌は内容も形式も大事なんですけれど、モノとしての存在も非常に大きい。それは交換するものとして、お土産として。日本はお土産の文化だと僕は思っているんですね。・・・

染谷 今お話を聞いていて、句会がまさにその通りです。
 …僕もへたな俳句を作って、今ですと大輪靖宏先生が主催して、俳人の黛まどかさんや作家の林望さんも参加されている令月俳座という句会の末席に加わっているんですが、句会っていろんあやり方があるんですよね。おもしろいのは、カレンダーや扇子・色紙などを結社でつくって配ったりする。それから、句集に載る、載らないということがすごく大事で、まさに物質をとっちゃうと俳句文化はなくなっちゃう可能性が高いのではないかなと思います。

シラネ 添削されるわけですか。

染谷
 そうです。連句になると治定と言って、それがもっと強く出ます。…

小峯
 グループといえば、昔、大岡信さんが書いていた「うたげと孤心」を思い出します。私もそうですが、日本では研究会が好きですね。・・・

染谷
 先ほどの文学の解体ですが、句会なんかはほんとに解体されていますね。・・・つまり、句会にきてて俳句をつくっている人たちは、これは第一文芸だと、これで私は名をなすんだ、という人は少ないです。もちろん中にはそういう人もいるのでしょうが、やはりその場を楽しむことが大事だという思いがあって、まさに文学を解体しているところがある。

シラネ そうですね。媒体(引用者注、ママ。解体?)ですね。私たちの座談会自体が日本の一つの独特なもの。一種の連句形式です。

染谷 そうなんですか。知らなかった。

シラネ だってアメリカでは一度もやったことないです。雑誌で一度もみたことがないです。インタビューというものはあるけど。こういうのは、まさにサロン文芸、座の文学ですね。前句に新しい句を付けることによってコミュニケーションができる。どんどん世界が変わる。意外な展開もあります。

「リポート笠間」No.50、2009.11



「俳句」が「座の文学」である「俳諧」の遺伝子を認める限りにおいて、俳句作家は安易な「近代文学観」に惑わされることなく、その「解体」作業へ関与している自覚を持つべきなのかもしれない。「座の文学」というときの「文学」は、たぶん、いわゆる「俳句は文学でない」というときの「文学」ではないし、「俳句は文学でありたい」というときの「文学」とも、すこしズレているのかもしれない。





『新撰21』、やっと購入しました!
ついでに、『豈』49号も購入してしまいました。散財散財。

内容も装丁もとても丁寧な、いいお仕事。
作家それぞれに力のこもった小論が付されていること、
作品掲載や作句信条の形式が作家それぞれに委ねられていること、
なにより巻末の座談会によって丁寧に作家たちの首途を祝していること。
これらは並のアンソロジーがマネできないところだろう。『現代俳句のニューウェーブ』(立風書房)や、高柳重信の五十句競作などがモデルだろうか。

もちろん21人という数字、人選については、思うところがあります。編者自身が明言している凡例や意図(*)を汲んだとしても、東京偏重だとか、前衛俳句寄りだとか、現代俳句協会の方が多いようだとか、各所でなされている指摘はそのとおりでしょう。残念なことに、私が最も近しい「船団」所属の作家は、作家にも評者にもひとりも入っていません。 ですから、この人選を現在の若手俳句作家の、忠実な反映だ、ということはまず無理です。

しかしまったく無視されているわけではないわけです。池田澄子門の越智友亮氏を広義の「船団」調と認めるとして、花鳥諷詠から前衛、現代俳句、テーマ詠、と、バランスがいいとは言えないまでも少なくとも幅広さは充分受け止められる、とは言えるでしょうし、また、総合誌ではほとんど見ない、独学の作家が数名含まれているのは、見逃してはならない同書の収穫。
もし再びこの世代を対象にしたアンソロジーを作るとして、21人に漏れた数名を加えることはできるでしょうが、21人と全くかぶらないアンソロジーは、たぶん難しい(特定結社に偏向したものは別にして)。その意味で、この人選は充分合格点といえるはず。
合格点のうえに、上述の丁寧な仕事を加味するなら、1890円という値段はかなりお買い得。1800円以上の楽しみ方は充分できます。


詳しい評は書けるときに書くことにして、まずは各人への短評を明日中に掲載する予定です。  



*凡例として、「本書は、二〇〇九年元旦現在四十歳未満(U-40)で、二〇〇〇年以前には個人句集の出版および主要俳句賞の受賞のない俳人を対象に、編者間の議論を経て選定した二十一名によるアンソロジーである」とある。
 


0 件のコメント:

コメントを投稿