2009年12月22日火曜日
『新撰21』短評
「~氏の小論」とあるのは、特に断らない限り、同書掲載の小論を指し、「座談会」は巻末の、小澤實氏、筑紫磐井氏、対馬康子氏、高山れおな氏、らの座談会を指す。
掲出は同書掲載順。
・越智友亮「十八歳」 無所属
小野氏の小論、「俳句想望俳句」は至言。現代でもっとも純粋に言葉と戯れている作家だろう。その無邪気さ、向日性には羨望するしかない。天賦の才が、今後表現のバリエーションを生むかどうか。「俳句のために上京した」彼が、いつ若書きを脱するか。
ひまわりや腕にギブスがあって邪魔
・藤田哲史「細胞膜」 澤
巧い巧いと聞いていたけど、これほどでしたか。一度徹カラにつきあわせたことがあるけれど、周りを気にせず一人歌っていて、流されない感じが面白かった。感性は「俳句想望」に近いのかもしれないが、無邪気さが図太さに直結している強さ。どれも面白いが、
西瓜食ふ婆ワンピース爺裸
もう一句、これは言及しないといけない。真珠庵本「百鬼夜行絵巻」かな。
物ノ怪の琵琶駆け出しぬ夜の青田
・山口優夢「空を見る、雪が降る」 銀化
「つづきのやうに」では知的な軽快さが目立ったが、今回は旧作も多いのか、叙情が目立つ。『豈』49号では「生理感覚にこだわりたい」と発言していて、過度の叙情が本来のしなやかさを殺いでしまうのではないかと思いつつ、今回は「生理感覚」を楽しませて貰った。
どこも夜水やうかんを切り分ける
・佐藤文香「真昼」 ハイクマシーン
思ったより句集から出してきた、とは、先日お会いした高山さんの言葉。『海藻標本』は話題になるに相応しい力作だったが、それよりも私はネット上でみる近作が好きだったのですこし残念。『豈』掲載の外山氏の言「俳句表現史をその切っ先から遡行しつつ食いつぶしていく」は、彼女の緊迫感あふれる向日性を捉えて、言い得て妙。
晩夏のキネマ氏名をありったけ流し
・谷雄介「趣味は俳句です」 TWC
高山氏曰く、タイトルに批評的悪意があってよいなと期待して読んだので、肩透かし。飯田哲弘氏曰く、脱・優等生の戦い。彼の、天才とバカのちょうど中間を斜めに歩くがごとき言動に対しては、とにかく出された句が楽しめるかどうか、で判断したい。
焼跡より出てくるテスト全部満点
・外山一機「ぼくの小さな戦争」 鬣TATEGSMI
ブログでの論考、『豈』誌上の佐藤文香論でも学ぶところ多く、先人の句業を批判的に継承し新たに構築していく、という、批評と実作の同時並行作業に共感。今回の企画がなければなかなか作品をまとめて読む機会はなかったと思う。好きな句が多かったが、
川はきつねがばけた姿で秋雨くる
・神野紗希「誰かの故郷」 無所属
生まれて初めて俳句表現のもつ圧倒的なパワーを見せつけてくれた先輩。いま何を考えて作っているのか、一番気になる俳人のひとり。ただ、句集以後の句群、あまりにも俳句、ではないだろうか。これを面白い、と思ってしまう私自身、また俳句に馴らされている。
日本の亀は小さし天の川
・中本真人「庭燎」 山茶花
花鳥諷詠をどう楽しむか、はホトトギスに学ばなかった俳句作家の課題だと思うが、ぬーっとした句は好きである。面識もなかったのに歌謡学会で声を掛けてくださったのには驚いた。最近論文をお見かけすることも多く、本業でも教えを請いたいところ。
鳥の巣と見えぬところに鳥が入る
・髙柳剋弘「ヘウレーカ」 鷹
実作でも評論でもいま一番注目の高柳氏。『未踏』所収句が多いが、すでに代表句と呼べる選り抜きの句がずらり。高山氏のいうとおり、案外、北大路氏とはコインの裏表のようなエンターテイナーなのかもしれない。だとするとその中間にいるのが谷雄介か。
紙の上のことばのさみしみやこどり
・村上鞆彦「水に消え」 南風
鴇田氏の世界と似ているが、それよりも「暗さ」が濃い。正直苦手な世界。略歴を見ると鷲谷七菜子氏に師事されたそうで、鷲谷氏の作品に疎いのだが、手許のアンソロジーなどを見るとなんとなく系譜がわかる気がする。掲出句などは白泉を思わせる。
電柱のうしろに冬の来てゐたり
・富田拓也「八衢」 無所属
詩歌の造詣の深さはただ敬服するばかり。「冨田拓也の世界」を作るためにすべてが注がれているという感じで、よくも悪くも独立独行という語が相応しい。「座の文学」としての俳句、あるいは今の「船団」調を全く受け付けないところにこそ、氏の句が存在する。
気絶して千年氷る鯨かな
・北大路翼「貧困と男根」 いちじはん 街
松本てふこ氏の小論は癖のある作品を真っ正面から受け止めて、書中屈指の好論。春・夏・秋・冬・女、の五部仕立て、「女LOVERS」では女性名が詞書に付される。面識がないからかもしれないが、「私小説」「境涯俳句」というより恋歌として読んだ。句の成功率は相半ば、か。座談会での言及はほかの作家に比べ圧倒的に多く、面目躍如の存在感。
いろいろと依存症のもも
らりりるれらりりるれろら春なのら
・豊里友行「月と太陽(ティダ)」 月と太陽、海程
今回のアンソロジー最大の収穫、といえば却って失礼だろうか。いわゆる沖縄詠だけでなく、現代作家としてとても正直な俳句が並んでいて、全体の明るさが好きだった。ただ、単語レベルでついていけない句も多く、詞書や脚注などの配慮が欲しかった。
どれもみな歌声になるうりずん
亀鳴くも生き急ぐ世の星雲だ
・相子知恵「一滴の我」 澤
今年の角川俳句賞受賞は記憶に新しい。現代的素材を、素材だけの新しさでなく俳句の形式に落とし込む技倆が目立つが、これはただ等身大の現代人というより明確な方法意識の表れだろう。もっとも季語の美意識を前提とする姿勢には必ずしも賛成できないし、逆に季語を痩せさせてしまうのではないか、という気がする。
冷やかや携帯電話耳照らす
・五十嵐義知「水の色」 天為
能村登四郎や佐藤鬼房も含めて、風土俳句は正直、苦手。私は基本的には出不精の机上派だし、阪神間を離れたことがないせいか故郷への愛着というのもあまりない。すこし説明的とも思える句が多かったが、雪にまつわる句群に風土詠を超えた面白さがあった。
マンモスの牙洗い出す出水かな
・矢野玲奈 「風」 天為
なんだか大層な作句信条に騙されて辟易していたが、改めて読むと意外なほどバラエティがひろい。「星飛ぶや八時ちやうどのクラクション」の飛躍、「かつぽれの膝の高きに夏兆す」の観察眼、「賑やかな駄菓子の色や涅槃西風」、どの句もあっけらかんとして、楽しい。
箱に顔突つ込んでゐる去年今年
・中村安伸 「機械孔雀」 豈
矢野氏の世界が敷居の低さに反してバラエティ豊かだったのに対して、中村氏の作品群は挑発的な外装に反して中身は意外に堅実、のようだ。パロディや季語の斡旋など、前衛俳句、現代俳句、ひいてはひろく近代文学全体の方法論を継承しているような印象。
儒艮とは千年前にした昼寝
・田中亜美「雪の位相」 海程
一面識もない女性に失礼なのだが、あえて直截に言わせていただくと「エロい」。頻出するテーマ(女性、哲学用語)、色彩(白)、が立ち上がり、実に濃密な世界を構成する。重さでなく、濃さ。非常に官能的なのである。世界の完成度では鴇田氏と双璧。
緑陰に竜の話の好きな子と
百合といふしづかな柱夜の電話
・九堂夜想 「アラベスク」 海程
難解さが、なにか別の世界へつながると楽しめるのだが、九堂氏の句群は具体的な景を結ぶことを断然拒否する。どの句も、どうしてもわからない単語がひとつずつ紛れている。いくつかわかるような句もあるが、それは面白くなくて、わからない句のほうが魅力的。
火祭りよ陸(くが)果てのいや立ちくらみ
・関悦史「襞」 豈
ここまで明確な方法論や問題意識、世界観を持っている作家であれば、むしろもっと俳句の文体に寄り添ったほうが豊かな世界が描けるのではないか。まるで守旧派俳人のように「それを俳句で詠まなくても」と言いそうになってしまう自分がいる。
人類に空爆のある雑煮かな
・鵯田智哉 「黄色い凧」 魚座→雲
さて、いよいよラスト。ラストに相応しい完成度で、各所で亡霊体とか朦朧体とか、確信犯的低空飛行、とか、いろんなキャッチフレーズがついている。逆に言うと自身で充足してしまっているようであり、「意外な驚き」で俳句ができることはないのだろうか、と不思議になる。
遠足が真昼の山に来てもどる
*
改めて読んでみるとちょっとマジメすぎるかな、という印象をうける。
なんというか、読み応えはあるけど、「脈はない」(*)かな、と思ってしまう句が多いのである。
マジメさにもいろいろあるが、現代俳句派の作家にはブンガク的な志向が、有季定型派の作家には雅志向が、それぞれ漂っているようだ。
ちなみに結社で見ると、「海程」所属が三人、「豈」「天為」所属が二人。
小論執筆者まで含めれば傾向はさらに顕著なのだがやめておく。編者の周辺に偏ることはある程度仕方のないことだが、いま一歩の懐の深さを見せてくれてもよかった。
*
明後日はいよいよ出版記念シンポジウム。なんとかこの稿も間に合った。
東京の皆さん、お世話になりますが、よろしくお願いします。あちらでお会いしましょう!
* 日刊この一句12/02 http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub09_1202.html
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