2009年12月10日木曜日

雑記


あんまり投稿が滞ってますので、埋め草に。
いつも以上にとっちらかった雑駁な内容となります。



前回(もう三週間も前だ…) 山口優夢氏の50句作品を読ませて貰った。
書いたとおり、最初は優夢氏の「○○を読む」シリーズのパスティーシュのつもりだったのだが、書いているうちに結局あんまり似ていない、別のものになってしまって、まあそれはそれでいいかと思ってそのままにしておいた。
それはともかく、優夢氏の作品を、私は「独白」と評した。 もちろん俳句が一般的に「独白の詩」と呼ばれることが多いのは承知の上である。
だが、たとえば次のような句は、「独白」というよりも「朗唱」に近いといえる。
  雪嶺の大三角を鎌と呼ぶ  山口誓子
  秋の航一大紺円盤の中  中村草田男


彼の句の、対象物との距離の置き方、人に押しつけるでもなく「納得している」としかいいようのないマイペースぶりが「独白」ぽいのである。ただ、そこに、俳句の文体に回収されない「奇妙さ」が残るかどうか、つまり、読者の予想していない展開があるかどうか、それが作品として残るかどうか、ということになるだろう。
よく話題にあがる
  焼酎や親指ほどに親小さき
なども、後半の「独白」の奇妙さは面白いのだけれど、上五の季語の斡旋がいかにも親を前にしてありがちな状況設定なので、そのあたりをよく指摘されているようである。



話は変わるが、板垣恵介という漫画家がいる。 →
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E6%81%B5%E4%BB%8B
いわゆる「格闘漫画」で知られている作家である。
少年漫画誌と思えない作風の多い『チャンピオン』作家のなかでも読者を選ぶ漫画家のひとりだが、代表作『グラップラー刃牙』は、タイトルを変えながら二十年近く連載が続いており、現在の「格闘漫画」のスタンダードを築いていると言っていい。
個人的には板垣氏は「格闘漫画家」でなく「漫画家」として非常に優れた作家だと思っており、特に劇画村塾(小池一夫主宰)仕込みのキャラクター造型については当節右に出るものほどの存在感がある。
その板垣氏の作風を一言で表したのが、

「予想は裏切る。期待は裏切らない」

というキャッチフレーズ。このキャッチフレーズほど、「連載」ということを強く意識した言葉もない。「連載」の面白さはまさに、毎週いいところで終わって次を「期待」するところにあり、また次週を「予想」しつつ、それが裏切られること、に違いない。
近ごろの板垣氏は、どうも読者の予想を裏切ることを優先して展開を変えている節もあり、その結果どんどん話がズレていってどこへ終着するのかわからない状況になっているのだが、それでも「予想」と「期待」の端境でこそ作品を読む愉悦があるのだ、ということを、板垣氏は熟知しているのである。



真銅正宏『小説の方法』にとりあげられていた、川西政明『小説の終焉』(岩波新書)を、いまさらながら読み始めた。

が、正直いって失望である。
内容については、見返し広告に要領よくまとめられている。

二葉亭四迷の『浮雲』から始まった近代小説でテーマとされてきた「私」「家」「青春」などの問題はほぼ書き尽くされ、いま小説は終焉を迎えようとしている。百二十年の歴史が積み上げてきたその豊穣な世界を語るエッセイ。

扱うテーマは「性」「神」「死」など多岐にわたるものの、本書自体はこれ以上でもこれ以下でもない内容だ。  指摘されている問題点はまさにそのとおりなのだが、では「私」「家」「青春」は、そんなにも「小説」の王道だったのだろうか。 川西氏が挙げる「小説」は、たとえば島崎藤村、徳永秋声らの私小説であり、志賀直哉、藤枝静男らであり、三島由紀夫や北杜夫の自伝的小説であり、永井荷風、吉行淳之介らの性遍歴を描く小説である。そして、たとえば藤村『家』を紹介する筆致に象徴的なように、あまりにも私小説的、モデル論的である。
『家』は一八九八(明治三十一)年夏から一九一〇(明治四十三)年夏までの十二年間にわたる藤村の自我の成長及び家からの自立と一族の滅びの歴史の記録である。三吉(藤村)の家と橋本(高瀬)家と小泉(島崎)家の歴史が重なっている。
(本書P.17)

私小説を「藤村の自我の成長」としか捉えられない視点で見るとき、こんな切実な「家」や「性」の問題を抱えている現代人はまずいないだろうし、問題に直面したとしても克服ないし回避する手段が、現代であれば残されているだろう。だから、作者の切実な生を背景とした「自我の成長」を期待するなら、もう「小説は終焉を迎え」るしかない。
しかし、である。
小説は、それだけなのか。
切実な小説は、切実な生のもとにしか生まれないのか。
あるいは、切実な生は、切実な条件下にしか成立しないのか。
いや、そもそも、切実さだけが、小説の価値なのか?
その視線こそが近代文学史を曇らせている最大の誤りではなかったか。

なにを言ったって時代は進んでいるのだし、これまでも進んできたのである。
切実でない時代に、切実でない作品を生み出すのも、また時代の所産なのである。
切実でない時代を、切実に生きて作品を生み出しても、また時代の所産なのである。
百二十年の歴史を簡単に貫くテーマがあるなら、むしろ小説の進度の遅さが心配である。 軽々しく「終焉」を唱える人びとは、「昔は、近所付きあいがあってよかった」と居酒屋で管をまくオッチャンたちと、大差ない人びとである。
年寄りは、気楽でいい。



うむ、書いているうちに意味もなく取り乱してしまいました。こんな当たり前の昂奮をネットの辺境でぶちまけることこそ、最大の無意味なのである。 反省。くるりんぱ。



明るい話題を。 21世紀、若手アンソロジー『セレクション俳人+新撰21』(邑書林)、刊行されたようです。  
http://8015.teacup.com/younohon/shop/01_01_03/644-5/

大学生協を通じて注文させていただきました。 このメンバー、この企画にして、1890円は意外にリーズナブル。 注文はリンク先、邑書林さんまで。
また、 執筆者のひとり、山口優夢氏のご厚情により、出版記念祝宴にも参加させてきただけることになりました。久々に会う友人たちも多いので、たいへん楽しみ。
年末は、忙しくなりそうです。  


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