2009年8月16日日曜日

週刊俳句121号 <俳句甲子園>特集?



「週刊俳句」121号に、第12回俳句甲子園記事が三本もアップされている。特に銘打ってはいないが、小特集のようでおもしろい。

一本目、江渡華子氏の準決勝~決勝までのレポート。

 → 週刊俳句 Haiku Weekly: 2009年俳句甲子園レポート 江渡華子
句それぞれの主観的な評価よりも大会そのものの客観的なレポートを重視した感じ。
彼女は、世代的には僕と同年でいわゆる「俳句甲子園世代」とでもいうべき世代だが、本人が明言するとおり俳句甲子園には参加経験がない。そのせいだろう、どちらにも入れ込まず、公正で臨場感のあるレポートになっている。
面白かったのは江渡氏が指摘する、松山中央のディベートの特色。

予選の時から気になっていたのは、松山中央のディベートの仕方だ。「○○をこう鑑賞しましたが、これでよろしいでしょうか」という言い方が多い。相手を褒めてしゃべり終わることがしばしば。相手の句の弱点を攻撃し、自分の句の良さをアピールするというディベートの観点からすると、いまいち何を言いたいのかわかりづらい。/金子兜太先生が「私は審査は初めてだが、これは褒めあいのゲームなのか」とおっしゃるほどである。
個人的には俳句甲子園のディベートの悪弊として、しばしば「揚げ足取り」の「けなしあい」に終わることが多かった。 もちろん僕が甲子園に関わっていたのはもう何年も昔なのだが、それがイヤで俳句甲子園を批判する人は、今でも多いはずだ。 ただ甲子園のディベートというのは、ディベートであるが、「鑑賞力」を試す場でもある。だから実際には「けなしあい」しかできないチームは鑑賞力のない、勝ち上がれないチームなのだが。
実見していないので何も言えないが、その意味では「褒める」チームが今年度の優勝校になったというのは、個人的にとても興味深い。テレビ放送が楽しみである。

江渡氏の言うとおり、俳句甲子園出身者がどこまで俳句を続けているのか、というのは疑問である。仲間が近くにいると続けられる、という人が多いが、逆に仲間がいないとまったくしない、というタイプが多く、また仲間を自分で集めようとする人も少ない。
ただ、ずっと考えている「創作に慣れる」体験ということで言えば、これほど俳句の垣根をぶちわった大会も少ないはずだ。その意味で私はいまでも俳句甲子園を評価している。

二本目、佐藤文香のレポート。
 → 週刊俳句 Haiku Weekly: 俳句甲子園うちらの場合 佐藤文香

江渡レポートと対照的に、予選敗退した松山西チームに密着した記事。
これから俳句甲子園を目指そうとする人たち、あるいはそういう人たちと俳句をやろうとする人たち、あるいは逆に俳句甲子園に妙な偏見を持って反対している人たちに絶対読んで欲しい、読ませる記事である。

俳句甲子園はディベートをしないといけないから、同じレベルの魅力なら「守れる句」が強い。有季定型のわかりやすい写生句は、その意味では、かなり強いんです。ただ、はじめからその句ができるならいいけれども、初心者に強固な句を作らせるのはかなり強制や矯正が必要になってくる。そんなのはしたくない。/としたら、欠点はあっても凄い魅力がある句を目指さないことには、面白く勝つことができない。ただ「凄い魅力」っていうのは、人によってさまざまだから、審査員がわかってくれない可能性もある、というのは常に言っていました。
「守れる句」が強い、でも「矯正や強制はしたくない」。
俳句甲子園出場チームに対して、少しでも指導的な役割を果たしたことのある人なら誰でも直面するジレンマだ。甲子園出身者で、ボランティアスタッフとして長く運営にも参加してきた文香氏はそのことをよく知っている。そして、どんなに自分たちがいい俳句だと思っても「審査員がわかってくれない可能性もある」ことも。
七夕や子供に渡す聴診器   岩本薫梨審査員の先生は「これは病院の診察室でのことですか」のような質問をした。それは読者が考えることだから、那須くんは「診察室でなくてもいい、七夕に子供に聴診器を渡す、それだけ」のような応え方をした。そしたら観客席の、ある高校の引率の先生が「はっはっはっわからな〜い」と手を叩いて笑った。そのあたりの人達や違うところでも笑っていたね。真剣だったから動揺するに決まってる。だって、なんで笑うの。わからないものは、わかるものより低俗なのでしょうか? 
文香氏の文章は抑制されて問題提起に徹している。一方的な恨み言にならないよう注意して書いている。
従って、僕も、この句が勝つべきだった、とは言わない。
俳句甲子園という場にあって、評価が「負」であった事実は変わらない。「わかってくれない」悔しさは、12年間、出場したほとんど全てのチームが味わってきた悔しさだから、ここで慰めを言うのはおかど違いだし、審査員や「ある高校の引率」を批判するのは ……後者の下品さはすこし批判に値するかも知れないが…… 当たらない。それを言い始めると、俳句甲子園そのものの批判になる。
勝ち負けは、負けである。甲子園ルールに沿って試合を楽しむ以上、そのことで文句を言っても仕方ないし、審査員の個人的なレベルや、その背後の俳壇の風潮云々を考慮するのは …… 個人的な愚痴や恨み節になるだけで、あまり意味がない。
句会でもそうだが、「わかる」句に対して票が集まるのは当然である。
しかし、「わかる」句だけでは面白くはない。「わかる」句と、「わからなくても魅力のある句」とが、対立してどちらかがなくなるのではなく、どちらも併存していて、いい。審査員には、勝ち負けとは別に「魅力のある句」の鑑賞もしてほしい。

そのために個人賞があるはずだ。
…… と思って調べてみたら、松山西は一句もとっていない。そして、どうやら第10回から年々、一人ずつ入選作が減らされている。
あるいは不況のあおりでもあるかも知れないが、試合の勝敗ではないところでこそ、一句ずつの本当の評価をしてほしい。それが「勝ち負けにこだわる」との甲子園批判に対する、もっとも誠実な応えだと思う。


三本目の酒井レポートは、甲子園から離れた出場句の鑑賞。
 → 週刊俳句 Haiku Weekly: 俳句甲子園を読む 酒井俊祐
江渡氏、文香氏の、甲子園のゲーム性に焦点を当てたレポートの欠を補う意味でもこうした一句ごとの鑑賞が見られるのがいい。こうした多面性を見せられるのが、誌面に制限のない週刊俳句の利点だろう。編集人の妙である。


僕が俳句甲子園にはじめて俳句甲子園に出場してから、(つまり俳句を始めてから)もう8年になる。
僕が甲子園に多少関わったのは、自分が出場した第4回と、友人や後輩のサポートにまわった5~7回までだ。それから、もう5年も経ってしまって、今や出場者のなかに知った名前はひとつもない。そろそろ甲子園に対しても客観的に見ることができるか、とも思っていたのだが、今年は残念ながら参加できなかった。

俳句甲子園を取り上げるメディアも増えている。
甲子園出身者にも、森川大和、神野紗希に続いて、佐藤文香、谷雄介、山口優夢といった俳人が台頭している。
甲子園出身者だけで固まる必要もないが、いわゆる俳壇的権威から遠い存在として生まれた「甲子園世代」が中心になってなにか、とっても楽しいことができないか。いつもそのことばかり考えているのだ。


※追記 佐藤文香氏記事のコメント欄が予想外に紛糾している。本文で書いたとおり個人的
 に文香氏の文章は、松山西に添った記事であると明言したうえで後出し恨み言にならない
 よう充分配慮されている、と思う。しかし世の中には素直にとらない人も多いらしい。
 もっとも編集人も自ら出馬して、どうやらおおかたの論点は出尽くしている。これ以上議論
 が発展することもなさそうだ。
  ところで、俳句甲子園出身者のなかに藤田亜未、伊木勇人、徳本和俊といった我が関西
 の盟友たちを入れていなかったのは迂闊でした。読み直してから気づき、笑ってしまった。
 訂正して補記します。

 

2 件のコメント:

  1. 拙稿とりあげてくださって、ありがとうございます。お元気ですか?俳句甲子園に思い入れがある者だからこそ、というのを、わかっていただけたのが嬉しかった。個人賞、残念だったけれど、そこは俳句甲子園だけじゃない!と、神奈川大とか龍谷大に応募するためにがんばっている彼らを見てほっとしてます。これからもどうぞよろしく。

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  2. どうも、随分ご無沙汰してます。B.U.819活動、楽しみに拝見しております。

    甲子園への思い、は甲子園出身者にとってはある程度普遍的な「複雑さ」がありますね。それは甲子園出身者以外には通じないかもしれないけれど、それでも甲子園出身で俳句を続けている人間にとってはとても大切なもんだと思います。俳句が好きで、甲子園が好きで、ぶっつぶしてやりたいくらいだ、って思いはすごくよくわかる。俺も、文香氏には負けるかもしれませんが、たぶん方向性は随分違うと思いますが、そーゆー思いは、あります。
    いつかまた句会やりたいですね。あ、今度会ったら、句集にサインください(笑)。よろしく。

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