NHK朝の連続テレビドラマ「ゲゲゲの女房」が、先週土曜日めでたく最終回を迎えた。
思えばこの十年、「妖怪」は慢性的なブームだった。
1994年に京極夏彦氏が『姑獲鳥の夏』(講談社)で鮮烈なデビューを飾り、
1996年、水木しげる、荒俣宏、京極夏彦の三氏を中心に「第一回世界妖怪会議」(於境港)が開催、
同年にテレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』第4期(フジ)が放送を開始し、
翌1997年、世界妖怪協会公認、世界初の妖怪マガジン『怪 KWAI』(角川書店)が創刊、
また1993年から設置が始まった境港の水木しげるロードにブロンズ像80体の設置が完了、
2000年、大丸ミュージアム他で「大妖怪展」(朝日新聞社)が開催、
2002年には、国際日本文化研究センターが怪異・妖怪伝承データベースを公開、
2003年3月、境港で水木ロードの終着点に水木しげる記念館がオープン、
また『怪』に連載の京極夏彦『後巷説百物語』(角川)が直木賞を受賞、
2004年、「大(oh)水木しげる展」(朝日新聞社)が開催、
2005年、三池崇史監督、神木隆之介主演で映画『妖怪大戦争』が公開、
2007年、テレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』第5期(フジ)がスタート、
同年にウェンツ瑛士主演で実写映画『ゲゲゲの鬼太郎』(松竹)が公開、、、
ブームというのは、いわゆる「ファン」以外も巻き込むからブームである。
この十年で、「妖怪」と、それを愛好する人たちの知名度は、飛躍的に一般化した。
ただ、2009年のアニメ第5期放送終了を最後の山場として、「妖怪」ブームは終焉を迎えつつあった。展覧会もいささかマンネリ化し、妖怪研究家、妖怪小説家を名乗る人たちの出現もひと段落、ファンの拡大も歯止めがかかり、そろそろ満腹を覚え始めていた。
そこへきて、「ゲゲゲの女房」である。
京極夏彦氏に倣って「水木者」を自称し、水木しげる氏を「大先生」(オオセンセイ)と呼び崇敬する私としては、キャスティング発表段階では主演ふたりの美形っぷりに相当の懸念を抱いていた。
ところが始まってみればこれが朝の番組としてはほどよく、自己主張しないふたりのキャラクターが悲惨な貧乏物語を爽やかに仕立て上げていた。終わってみれば平均視聴率が20パーセント近い、近来の朝ドラ不調を払拭する大ヒットだったらしい。(主演ふたりは名演ではないとしても好感がもてたし、大杉漣、風間杜夫、竹下景子といったベテラン陣は絶品だった)
夏でもきっちりシャツを着ていたり、赤ん坊が妙に手がかからなかったり、商店街がこぞって水木夫妻の応援団だったり、細かな違和感はすべてのみこんで、リアリティよりレトロの雰囲気が先行した。
水木夫妻はいつの間にか「昭和の夫婦」の代名詞になっていた。
成功は、やはり「女房」が主役だったことによるのだろう。
水木自身を主役に据えていたら、もっと悲惨なものになっていただろう。雑誌の低迷とか、アイディアを得るための努力とか、手塚人気への嫉妬とか、水木本人が直面していた生々しい話題は、家を守る「女房」の視点からは、中心的な話題にならなかった。(そういえば手塚治虫はじめ白土三平、石森章太郎など水木より売れていた漫画家は全くドラマに登場しなかった。長女の尚子(藍子)さんが手塚ファンだった、というのは原作にも書いてあり有名な話)
「女房」はただ、仕事をする夫の背中を信じていた。「夫唱婦随」は「昭和の妻」が納得しやすい設定だったろう。事実多くのファンが、自分や、自分の両親を投影し、"感動"した。
ドラマで見るかぎり水木はせいぜい「ちょっと変わった」温厚な仕事人であり、たまにオナラの話題で盛り上がったりするものの、たとえば
ブームってのは働かんでも金が入ってくるからいいなどと身も蓋もないことを放言する水木大先生とは、やはりちょっと別人だった。
ふと、穂村弘氏の、驚異(ワンダー)/共感(シンパシー)の二分法を思い出す。
大先生は漫画や随筆などさまざまな媒体で自身の伝記を語っている。多くの人がその稀有な人格に圧倒される。
人が死んだらどうなるのかを知ろうとして弟を海に突き飛ばしたという水木少年。太平洋戦争の最前線の悲惨さを、食欲と糞尿の話題でつづる水木二等兵。南方での生活に憧れながら「我々は冷蔵庫を棄てられない」と喝破する水木氏。手塚治虫文化賞授賞式で、手塚や石森のように徹夜自慢をしている人は早死にした、と語った水木大先生。
それらはもちろん、水木が提供する「水木しげる」であり、真実の「武良茂」ではない。
京極夏彦氏の言葉をかりれば、水木の最高傑作は水木サン自身、なのだ。
この十年の「妖怪ブーム」は、世間に求められる形で水木が提供した「水木サン」を中心としたブームだった。
しかし、今回ブームになったのは「水木サン」でもなかった。
「昭和の夫婦」という、実にALL WAYSな、受け入れられやすいパッケージに包まれたとき、より広い層を巻き込んだ「ゲゲゲ・ブーム」が出現したのである。
「水木者」の先達、京極夏彦氏は、大先生のすごさを次のように分析している。
水木しげるという大作家の偉大かつ特異な点は、自らのスタンスをほとんど変えずに、メディアを乗り換えることで時代に対応するという、実に潔いスタイルをとり続けてきた――という事実に集約することができるかもしれない。……水木しげるは、「自分が面白いと思うこと」だけを「みんなが面白がれるもの」に作り替えてプレゼンテーションすることに全身全霊を傾けてきた人である。
「水木しげる大先生の限りない魅力を伝えるために」『大水木しげる展』図録、2004
思えば、ドラマにも出た実写「悪魔くん」は、貸本時代のように貧乏人のために革命を仕掛ける救世主の物語ではなく、小ずるい悪魔メフィストとともに少年が妖怪退治をする活劇だった。「正義の味方」というパッケージによって、「悪魔くん」はヒットしたのだ。
いくら本物でも、ただ描くだけではだめだ。ウケなければ生活が出来ない。どうすればウケるか。水木作品は水木作品が生き残るために、どんどん形を変えてきた。だからこそ生き残った。その裏には、絶え間ない、生きるための努力があった。
「師事する」「私淑する」というのは、ただ師の言葉に従うだけの、信仰者の謂いだろうか。違うと思う。ただのファンではなく「水木者」としては、やはり水木がどのように努力してきたか、そのすごさを知っておきたいと思うのである。そして、大先生の努力を知るゆえに、「水木者」は努力を惜しまない。あらゆる知識とあらゆる手段を使って水木しげるの魅力を伝える。
盲信し、追随するだけの信仰者として、先達が歩んだ努力のあとを知ろうとしないのは、
師の威を借りて生きることよりもなお恥ずかしい、
と、私なら思いますが、まぁ、そのへんは、考え方の相違なのかな。
好きなことだけをやりなさい。好きなことは一生懸命やりなさい。
水木しげる
一人の優れた俳人が居るとする。その弟子は精進して、師の作品に似た、師より少し劣った作品を作る。その弟子がまた、師の作品に似た作り方の、少し劣ったものを残す、とすれば、俳句の衰退は約束されているとよく言われた。
三橋敏雄は、渡邊白泉と西東三鬼を師とし、白泉とも三鬼とも異なる俳句を残した。
池田澄子「根を継いで新種の花を 師系に学ぶ」『休むに似たり』2008
参考.俳句樹:海程ディープ/兜太インパクト -1- 人間・金子兜太 中村亮玄
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