2010年9月24日金曜日

写生 青木亮人さんへ。


青木亮人さんがツイッターで、興味深い「写生」論を展開されている。(http://twitter.com/k551_jupiter/)

論文というのではないけれども正直、ツイッターではなくきちんとした文章の形で、たとえば「週刊俳句」なんかに書いて欲しいような、示唆深いものである。
大変勉強になったので、私個人に宛てられたものと解するより広くご紹介すべきであろう、と思い、また私自身の心覚えとしても役に立つので、以下、拙文でまとめを試みたい。

もともとは、佐藤雄一氏が「週刊俳句」24号に発表された
「高浜虚子小論 <季語>の幽霊性について」という文に対して青木さんがコメントを返されたのが発端だったようだ。
その後、ツイッターを通じて佐藤氏と青木さんとの間で意見交換があり、たとえば

「回帰」という発想から「写生」を捉えると、それが「虚構/事実」かは問題ではなく、言語表象の段階において、追体験の強度がどのように操作されているかが、焦点となるだろう。簡単にいえば、「ありのままかどうか」ではなく、「ありのままに見えるかどうか」が問題となる。
4:14 AM Sep 19th webから
その時、「ありのままに見えるかどうか」を考えた際、言葉に「事実=レアル」が「痕跡」としてどの程度刻印されたかが、問題の焦点となる。「痕跡」は、素人読みでは、デリダ流にいえば「差延」となろうし、ハイデガー風にいえば「常に到来しつつあり、未だ到来しないもの」となろうか。
4:16 AM Sep 19th webから
といった発言もあって、詳しくお尋ねしたいところなのだが、正直なところ挙げられている哲学・理論をまったくわかっていないのでこのあたりはスルーしておく。
ただそのあとで

先ほどもつぶやいていましたが、「回帰」「幽霊」は時間に関する認識と感じます。俳句の世界では、季語や定型に関する議論は空間的な把握が多く、言説の現前性や表象における追体験を発生させる枠組みとして論じたものは、ほぼないように思います。
6:27 AM Sep 19th yy_sato宛
という発言があり、思いついて次のようなメールを青木さん個人宛に送信した。

ツイッター拝読。
僕の師匠、塩見恵介に、写生とは、「読者が具体的な景を再生産できるリアリティある表現」との発言があります。いま出典が失念していますが、たぶん坪内先生の子規理解から来ていると思います。とりあえず『俳句発見』にも「子規の写生とは一句を目に見えるように、すなわちリアルに構成することだった」P.14とあります。具体的でなく申し訳ありませんが、よく似たお話が交わされていたので、ご報告まで。

塩見先生の発言は私が「写生」を考える際に常に指標にしている言葉なのでどこかで読んだのは間違いないが、今回いまだ出典を捜索しあてていない。
さて、私のメールが「言説の現前性」「追体験」などの用語に引きずられて議論を捉え損なっていることは自明である。これに対して青木さんは、より興味深い形で返答してくださった。
「写生」が「読者が具体的な景を再生産できるリアリティある表現」は仰る通りとして、こだわりたいのは、再生産の過程なんですよね。「再生産」よりは「追体験」が近いかな…「写生」句を読む際の「追体験」=想起しうるものと想起しないもの、その選別の判断や選択、(・・・)
1,284,980,216,000.00 webから
記憶が想起される過程において、たぶん、他ジャンルにはない俳句独特の想起のあり方や追体験のリアリティがあるように感じるわけです。「写生」はリアルを構成する、それはいいとして、有季/無季定型において作動する想起のあり方は、小説や詩、短歌と異なるんじゃないか、と。(・・・)
1,284,980,389,000.00 webから
それを捉える際、“「写生」はリアルを構成する”という角度から俳句における「写生」を考えると、抜け落ちるものが多いように感じます。なので、その追体験の想起の過程そのものを捉えるという意味で、時間的な概念(曖昧な表現ですが…)を裁ち入れると、(・・・)
俳句で「写生」を行った際の急激なねじれ、歪み(のようなもの)のありようを、今少し詳しくつかめるのではないか、と。
1,284,980,852,000.00 webから
うん、ツイッターはブツブツ切れるのでどこを引用して良いか迷いますね(笑)。
ツイッターも一応記録されているのだから文章形式への引用ルールがあると便利なのだが。
それはともかく、重要なのは、俳句表現が読者にもたらす「追体験」の過程が、他の文芸ジャンルとは違うのではないか、というご指摘である。
つまり私は実作者の発言を指標として、実作手法としての「写生」にしか言及できていなかったのだが、青木さんは読者に独特の「想起」させる形式、仕掛けとして「写生」を捉え直している、ということと思う。

これは個人的な感想ですが、ありのままに写す「写生」ということと、有季/無季定型という器は、かなりの摩擦を生じさせるものでは、と感じます。季語を使用しつつ、またたとえ使用しなくとも、十七字前後で描写すること自体、かなりの無理があり、ある種のずれを生じさせるのではないか。
1,284,982,773,000.00 webから
それを「ずれ」と表現することが妥当かどうかは微妙な問題ですが、とにかく、無理がある。文学理論風にいうと、17字という物語言説を読み下す際の時間と、17字に託された物語内容に流れる時間の膨らみは、まず一致しない。
1,284,982,973,000.00 webから
「写生」=ありのままに写す行為と「有季/無季定型」に表現される内容とのズレの問題はたしかにそのとおりだろう。
青木さんが後に指摘することとも重なっているが、「定型」表現による「無=意味」な内容を提示して解釈を読者に強要するような、「近代的」な作者/読者の関係を意識できた最初の俳人は、正岡子規であり、次に高浜虚子であろう。
青木さんは、素十のトリビアルな写生句を、「無=意味」句として提示している。
なるほど、より具体的な「美意識」を提示しようとした水原秋桜子や、人間探求派・新傾向俳句派は、たしかに「無=意味」俳句ではなく、だからこそ虚子に反発したわけだ。
ところで、ありのままに書くことを重視して「定型」を棄てたのが碧梧桐だった。

曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ   碧梧桐 大正7
菜の花を活けた机をおしやつて子供を抱きとる    大正14
青木さんの文脈からいうと、虚子と碧梧桐の対照が、ちょうど「写生」と「定型」と「無意味」との関係性を明らかにしている。
リアルに構成するだけなら碧梧桐の句は実にリアルであり、無意味といえば無意味でもあるのだが、虚子のように意味を読者に解釈させるような余地は、まったくない。
「写生」に偏って「定型」を棄てた碧梧桐は、結局無惨な「言い過ぎ」俳句になってしまったわけだ。

個人的な理解からいえば、大局的には青木さんの指摘は従来言われ続けてきた俳句の余白、つまり坪内稔典氏がいうところの「片言性」と、片言性を支える「共同性」の問題に近いとおもう。
ところが、従来はこの「共同性」というやつが、「座の文学」とか「挨拶」とかの俳諧用語に回収されてしまって問題が朧化してしまっていた印象がある。
むろん子規や虚子自身が俳諧から俳句を立ち上げてていったのだが、大事なのは子規や虚子たちが「近代」の眼から俳諧を捉えていたこと、である。
従ってやはり、「近代文学」を読み解く際に有効な視点は、基本的に「俳句」にも有効な面があろう。青木さんの一連のご発言は、よりクリアに、俳句と他形式との「機構」の差に言及されているように思われる。
特に、碧梧桐を補助線とすると、なぜ碧梧桐が「俳句」でなくなってしまったか、我々が「俳句っぽい」と感じるsomethingがどこらへんに起因するか、というのが、かなり明確になるようだ。これは大変示唆深い視点だと思う。

以上、大変勉強させていただきました。
続きの「季語」論、お会いしたときにお聞きできるのを楽しみにしていますm(_ _
)m。
 

2 件のコメント:

  1.  こんばんは。
     メールありがとうです、さっそく拝読しました。詳細にまとめて下さり、僕自身助かります(笑)。問題の要点が、より明瞭になったと思います。
     >「俳句っぽい」と感じるsomething
     これが最も気になるところです。
     個人的なことですが、これまで俳句の他にも小説・詩等を文学研究的なアプローチで分析したことがあるのですが、そのたびに「俳句は他ジャンルと違うsomethingがある」と強く感じたんですよね。
     また、竹中宏さんや岩城久治さんなど、実際にお話すると凄味のある実作者の方々との研究会に参加するたび、小説や詩ではまず出てこない問題が話題になることが多々ある。しかもそれらは、俳句の本質的な特徴に関する議論だったりするので、それで、自分なりにいろいろ考えたという次第です。
     「俳句っぽいsomething」は、一見ベタな感覚かもしれませんし、それは詩や短歌でも詠みうる、と主張する方がいるかもしれない。言い方次第では、俳句はそもそも他ジャンルと異なるのだ、という開き直り(?)の綱領のようなものになりがちでもあります。
     しかし、この「something」の存在しない作品は、やはり作品として弱い気がします。また、そのような作品は他ジャンルと比べて見劣りする気もします。
     
     
     「季語」の問題も、かなり厄介な手続きが必要になりそうなので、まだ整理はうまく付いていないのですが……機会があれば、お話などできればと思います。同時に、季語や俳句的somethingに関する意見なども聞かせてもらえれば嬉しいです。
     また、これらの問題について、曾呂利亭氏の意見もぜひお聞きしたいところです。時間のある時など、このサイトでアップされんことを!(笑)
      
     
     まずはまとめて下さり、ありがとうでした!
     お礼かたがた、コメントまで。
     

    返信削除
  2. >k551_jupiterさま

    早速ありがとうございます。こちらこそ色々勉強になりました。ありがとうございます。恣意的なまとめに蛇足を付け加えてしまいました、誤読曲解、ご容赦ください。

    今週の神野紗希さんの時評(週刊俳句178号)によると、また「有季定型」の議論が浮き上がっているようですが、有季定型だけが俳句だとして、それでは無季俳句、破調に対して我々が感じる「俳句っぽさ」はどこに起因するのか。
    高柳重信や富澤赤黄男を「俳句でない」と言いたくなる"俳人"がいるのはわからなくないのですが、三橋敏雄の無季俳句は、明らかに「俳句っぽい」。そして延長線上に高柳、富澤は、たしかに存在する。
    一方、意外に碧梧桐のほうが「俳句っぽさ」がなく、むしろ散文になってしまっているように感じるわけです。

    いやはや、もちろんこんなコメント欄で結論が出るわけもなく。「俳句的なsomething」論、今後ますますのご発展に期待しております~。

    返信削除