2009年6月19日金曜日

「俳句研究」2009年夏号


突然ですが、私は不誠実な俳句雑誌購読者であって、購読している総合雑誌はまったくない。
威張ることじゃないですね、すみません。

その代わり、学生という立場をフル活用して、大学図書館が購入している、『俳句』、『俳句研究』の二誌だけはできるだけマジメに読むように努めている、つもり。『俳句研究』に関しては、直販形式になってから一旦購入停止状態だったのを交渉して購入継続にこぎつけた。『俳句』は国文学科書庫にだけ配架されているので、たぶんうちの学生で二誌を毎号見ているのは、私一人である。

図書館に配架されるのは発刊して二週間くらい遅れるので『俳句』についての情報は結構遅くなる。そのあいだネットとかで話題になった記事はとりわけ念入りに読む。話題になってないところは流し読みになりがちなのだが、次号の座談会でもう一度再読する。
一方、『俳句研究』は販売形式が変わったせいか話題にのぼることが少なくなったが、季刊ならではの誌面の充実度は、やっぱりすごい。

今回の特集は、「宇多喜代子の世界」。
内容は、
 ・自選100句と自注
 ・金児兜太、筑紫磐井、寺井谷子、茨木和生、西村和子、木割大雄、渡辺誠一郎、片山由美子、各氏の随筆風宇多喜代子論。(というか、宇多さんとの思い出、のような感じ)

 ・略年譜
 ・大石悦子、山本洋子、岩城久治、井上弘美、三村純也、神野紗希、若井新一、各氏の「著書を読む」。
 ・妹尾健、辻田克己、高野ムツオ、ほか各氏による「宇多喜代子の一句」
 ・それに、和田悟朗、山田弘子、小川軽舟、ほか各氏によるアンケート。

高柳編集長時代の、「そのまま現代俳句大系の一冊になるような」誌面には比べるべくもないが、先日来私も言及した「特集を組まれない世代」をとりあげたものとしては重要だろう。
そして、その誌面を見ていると、なんとなく「特集を組まれない」=組みにくい、のも、分かる気がしてきた。

川名大『現代俳句 上下』で宇多喜代子が立項されていない、とは以前述べた。ちなみに平井照敏『現代の俳句』にも記載がない。
要するに、表現史のなかに位置づけづらいのではないか、と思う。
自選100句を見ても思う。
各氏の随筆で浮かんでくる、人物像からも思う。

端的にそんな印象を浮かべやすいのは、筑紫磐井氏の文章「汎時代的―時代論」である。
タイトルからしてそうだ、宇多喜代子は「時代を限ることが出来ない、汎時代的な活動をしている」
 雑誌「未定」で、「高屋窓秋の最期を看取る」宇多喜代子。
 現代俳句協会会長として「「昭和」という時間を生きてきた優れた先人達の句業、心ならずも不遇に果てた人たちの遺志、埒外に置かれたままの少数派の試行。けっしてそのままにしておいていいものではありません」と宣言した宇多喜代子。
 その一方、石井露月系の「古くさい結社」で活動を始めた宇多喜代子。
 大阪俳句史研究会を立ち上げ、「多くの人と語り合う」宇多喜代子。
 古季語、難季語研究の「あ句会」の中心人物である宇多喜代子。

それぞれの活動の顔は、それぞれ親しい執筆者が文章を寄せていて、相互補完的に宇多喜代子の多面性を明らかにしている。

こう、幅があると、…却って、論じにくいだろうな、と、思うのである。
坪内稔典氏は、もっと過激に、「今日の俳句会の中心にいる七十代、六十代」に、「明確な、そして、その人に固有の方法が見当たらない」「方法が明確でないだけに、個性もまたかなり希薄である」と批判し、そのなかに宇多喜代子、矢島渚男、大串章、黒田杏子、大石悦子らを含んでいる。(『俳句発見』所収。初出2002年)。(もっともこのなかには藤田湘子、川崎展宏、福田甲子雄ら、もうひと世代上の俳人も含まれているのだが。)

ここで、唐突ながら先日来の宿題をひとつ片付けておきたい。

実は、神野紗希さんのblogで、拙文のポストモダン言及を引いて、次のようにコメントをいただいていた。 →http://saki5864.blog.drecom.jp/archive/421

私の思うところでは、そのあと久留島くんも指摘しているように、イデオロギーという点でいえば「社会性俳句」のあたりが「大きな物語」に匹敵するのかもしれない。もしくは、「境涯俳句」あたりも、それに近い信仰をもっているような気がする。/でも、俳句において、もしポストモダンがやってくるとしたら、それは「季語」の問題と絶対に関わってくるんじゃないかな。季語を「大きな物語」とまで言ってしまっていいのかはちょっと疑問だけど、俳句にあきらかなポストモダンが訪れないのは、逆にいえば、信じるべき季語体系が、手放されずに手元にあるからなんじゃないかなあ。

季語を「大きな物語」と捉える視点は、ちょっと虚をつかれた。
でも、なんとなく違和感を感じて、直接論及を避けているうちに、すっかり忘れて先日「結語」なんて書いてしまっていたわけで。記事をアップしたあと気づいて、申し訳なく、あわててかけこみ宿題提出をさせていただきます。
直接論及できなかったのは、「季語」が農耕稲作水田文化に根付いた「物語」だ、というのは確かにそうだ、と思ったからだ。そして、稲作文化に根付いた物語大系を無視して、ただのデータベースとして使っている僕たちの姿が、「動物化するポストモダン」だと言われれば、まったくその通りな気がする。
しかし、なぜ違和感が残ったか、と言えば、伝統的に続く「物語」から言葉を取り出して、まったく違うイメージに刷新してしまうこと、というのは別にポストモダン的状況に限らず、俳句・俳諧にはありがちなことではないか、とも思ったからだ。
なぜって、歳時記という存在自体が、データベースだからだ。
それに「歳時記」は、固定した『大きな物語』ではない。どんどん新しい季語を取り入れていって、どんどん稲作文化から離れようとしている。それはポストモダン的状況に限らず、近代的都市が生まれて以来、=つまり「俳句」が生まれて以来、ずっと起こっている状況ではないだろうか?

今回の特集で、宇多喜代子さんが臨む範囲の広さと、同時に宇多さんが生きた近代俳句の広がりというのを考えさせられた。(たぶん同号にあったアベカン追悼記事も影響している)
しかし、現在の宇多さんの立ち位置というのは、どうなのだろう。たとえば昨年の『俳句研究』で一年間「季語鼎談」を主導したように、また今回の特集でも「意識的に」季語文化を生きているとの言及があったように、宇多さんはいま、季語の守護神といっていいお立場にある。

「意識的に」生きなくてはいけない文化のなかでの表現、というのは、果たして現代の表現として機能していると言えるのだろうか?

2 件のコメント:

  1. お返事ありがとう^^

    データベース化と、季語は大きな物語だっていうこととを一緒にしゃべっているから、確かにとてもわかりにくいよね、ごめんなさいでした。二つの、見解の違う意見を、私は一度にしゃべっていたみたいです。

    まず、季語をデータベース的に使っている感じがするのは、「ポストモダン的現象」として、私たちが実際に体験している俳句の状況を見てみたときにでてくるもので、確かにこれは、多かれ少なかれ、

    >伝統的に続く「物語」から言葉を取り出して、まったく違うイメージに刷新してしまうこと、というのは別にポストモダン的状況に限らず、俳句・俳諧にはありがちなことではないか、とも思ったからだ。

    というように、これまでもあった方法なんだよね。これは、「俳句がそもそもポストモダン的である」といわれるゆえんのひとつでもある。


    で、もうひとつ、季語が「大きな物語」、という話は、また別の話になって、俳句にはまだポストモダンは訪れていない、という見解に基づきます。つまり、季語という確固たる体系(長い歴史で培われてきた膨大な蓄積)を手放してしまわない限り(疑わない限り、くらいでもいいかもしれません)、俳句にはポストモダンは訪れないのではないかな、ということでした。

    歳時記の内容は、たしかに固定した大きな物語ではないけれど、歳時記や季語体系の存在そのものは、俳句にとっての大きな物語なのではないだろうかと思うわけです。


    宇多喜代子特集、面白かったですね。ひとつ希望をいうなら、私は、宇多喜代子の作品論(一句鑑賞ではなく、ある程度広い範囲の)を読んでみたかったなあと思ったなあ。

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  2. >sakiさん
    ありがとうございます。
    もうよい子はお休みの時間なのですが、sakiさんのコメントとblog記事http://saki5864.blog.drecom.jp/archive/431を見ていたら慌てて返信しなくちゃいけないという気分になりました。いつも以上に混乱していると思いますが、ご容赦ください。

    つまり、いま現在、「有季」の立場には二通りの俳人が存在していると思うのです。
    季語が本来持っていた意味やエッセンス(本意)を理解して使う俳人と。
    ただ「季節を表すことば」として記号のように使って、理解する俳人と。

    どちらも「季語」を使うことに疑問はありません。
    しかし、後者は、少し「データベース化」度が高いように思えます。そして季語の歴史性からはちょっと離れている、と言えそうです。
    でもそれは、やっぱり俳句俳諧にとっては「多かれ少なかれ」なじみ深い心性であるように思えます。それなら、今更驚く必要はない。

    だから、僕も言いたいのです。
    ポストモダンとか、そうでないとか、そんなことではなくて、
    俳句表現として、他の俳句、昔の俳句と、ナニが違って、どういうすごさがあるのか、が論じられなくてはいけない。

    sakiさんの言う、「季語に疑問をもつ」ということは、それ自体は何度も繰り返された試みではあるのですが、これまでの試みとはまったく違うベクトルがあるように思えます。
    sakiさんの言う季語への疑問は、これまで「詩語」や「キーワード」で言い換えられていた、そういう言葉にも疑問を持つことではないですか。

    もしそうなら、そのことにとても興味と共感を覚えます。

    実は、僕にとって佐藤文香「ケーコーペン」は『海藻標本』以上に衝撃でした。そのことと、sakiさんへの共感が、僕の中ではつながっています。http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/02/blog-post_5259.html


    >宇多喜代子特集
    面白いけど、もうすこし。というところでしたね。あの紙幅なら長めの評論が一本掲載されてもよかったですね。
    もっともだからこそ「特集を組まれない世代」なのかもしれません。

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