2020年5月27日水曜日

【転載】京都新聞2020.04.20季節のエッセー(11)

「豆ご飯」


の塩焼き、春菊のポン酢和え、がんもにスナップえんどう、大根とトマトのサラダ、若布(わかめ)スープに豆ごはん。
わが家のある日の晩ご飯。エッセーの話題がない、と妻に相談したところ「今の時季なら豆ごはん」と宣言して作ってくれた。
共働きなので普段の家事は分担制。食事も朝は出かけるのが早い人、夜は帰宅の早い人が担当し、作ってもらったら必ず食器を洗うのがルール。
当初、チャーハンと野菜炒めしかなかった私のレパートリーもだんだん増えてきた。
幸い、ネット上には初心者向けに丁寧なレシピがあふれている。そのうえ出汁パックや冷凍食品、メニュー用調味料など力強い味方は多い。日本の企業努力万歳だ。
とはいえ一人で食べる昼食なら、多少塩加減や分量を間違えても我慢して食べてしまえばよい。問題は人に食べてもらうときだ。二人分には量が少なかったり(キャベツは焼くと予想以上に嵩が減る)、あちらを準備している間にこちらが冷めてしまったり(鶏肉は意外に火が入りにくい)、悪戦苦闘である。
特にこの三月は、思わぬ厄災で予定が軒並みキャンセルになってしまい、家にいる時間が増えたので私の担当機会も増えてしまった。
一方妻は、平日は時短ですませることが多いものの、一度思い立つとしっかり季節感のある料理を作り始める。わざわざ毎年苺を買ってジャムを煮詰めるのには感心してしまう。おかげでヨーグルトに合わせる甘味に不自由しない。
コロナ騒ぎがこれほど大きくなっていなかった二月の下旬。俳人の大石悦子さんに公開でお話を聞く機会があった。
大石さんが、師事された石田波郷から最後に添削をうけた句、
 今日よりは()(もは)ら妻(にら)の花
には「鍛錬会に出席(かな)はば、向う一年、句会には出でずともよしとわれから夫に言ひたれば」との前書がある。当時、専業主婦が一泊二日の鍛錬会に参加するには、それだけ制約があったのだ。
大石さんは、句会の日はカレーやおでんを作り置きして出かけたので子どもたちに申し訳なかったといった話もしてくれた。男子厨房に入るべからずの時代のことだが、今も案外、そんな家庭は多いのかも知れない。
 今度、蛤ご飯に挑戦してみようと思っている。私の場合はレトルトだけれど。(俳人)

2020年4月21日火曜日

【転載】京都新聞2020.03.17 季節のエッセー(10)


「百年目」

スマートフォンでネットの検索画面をひらくと、ニュース項目がずらっとならぶ。
普段の閲覧、検索の履歴からおすすめ記事をピックアップしてくれるらしく、私の場合、俳句、芸能ゴシップ、大学や出版社関係の記事が多くなる。昨日放映された俳句番組の内容とか、俳優の不倫報道とか、有名大学の学生の不祥事とか、あまり読んでもためにならないような記事はタイトルだけ読み流す。
先日、尼崎の落語会を取材した記事に目がとまった。
尼崎在住だった人間国宝・三代目桂米朝さんにちなんで、もう四十年以上続く勉強会という。第一回目のトリは、桂枝雀さんだったそうだ。その記事で気づいたのだが、米朝さんが二〇一五年三月一九日に亡くなって、今年は五年目。枝雀さんの死は一九九九年で、二十年以上が経っている。
桂枝雀さんが亡くなったのは、私が中学生のとき。
当時そんなに落語が好きだったわけでもないのに、なぜか「せっかく同時代に生きていたのに、死んだら見られないな」と強く思った。追悼特番をテレビで見たときだったかもしれない。
そんな理由もあって、学生時代、米朝さんの高座には自覚的に足を運んだ。
印象的だったのは、枕の途中で「……いま思い出しましたけどな」から始まる小咄。
知られるとおり米朝さんは学者のような一面があって、江戸時代の文献から古い咄を蒐集し、復活させていた。
小咄でくすっと会場を笑わせて、「こんなしょうもないもんでも、話しとかんと消えてしまいますさかいな」。
ときに二つ、三つと小咄が続くときもあり、本当にアドリブなのかはわからないが、米朝さんが蓄積し、伝えようとしてきた文化の豊かさに触れた気がして、嬉しかった。
私が一番好きな大ネタは、「百年目」。
仕事はできるが口うるさく堅物の大番頭が、実は店の外では遊び人で、芸者をあげて花見をしていたところを旦那に見つかり大慌て。店を出るしかないと覚悟するも、翌朝番頭を呼び出した旦那は、思い出話をしながら、自分の金で遊ぶのは甲斐性だ、これからも自分を支えてほしいと話す。タイトルは、旦那に見つかった番頭が思わずお久しぶりでとあいさつしてしまい、「もうこれが百年目だと思った」というサゲに由来する。
百年後も落語で笑えますように。(俳人)



参考.支局長からの手紙:尼崎の桂米朝さん/兵庫 - 毎日新聞2020年2月23日地方版(会員有料記事)

2020年4月17日金曜日

句集鑑賞(順不同)


『301 ダダダダウッピー』vol.2(象の森書房)は、俳句・短歌を共通言語としてダンサー、画家、生物学者、ミュージシャンなどさまざまなメンバーが集まって活動するワークショップ301がまとめた作品集第2弾。
301の世話人である山本真也は画家であり、「氷室」「船団」で活動する俳句作家でもある。目にとまったいくつかの句・歌を紹介する。
 泉より石のいろいろ見えてきて  鈴木春菜
 それぞれの道へ別れた友達が僕の京都の半分だった  山口凜
 松虫やさよなら清涼飲料水  嵯峨実果子
 うな垂れた分だけ飲めるコカ・コーラ  中村公
 夏院試時間切迫何故勃起  山口優輔
 オカリナを沈める清流夏が行く  植田かつじ
 飯蛸や母の子どもが集う日の  工藤惠
 闖入し餓鬼やはらかに氷柱盗る  石川凍夜
 吾輩は全ての屋根の主である  山本真也
 ここからは地獄の沙汰もすみれ草  宇都宮さとる

workshop 301
301vol.2ダダダダウッピー Amazon 



『エンドロール』(青磁社)は、朝日泥湖の第二句集。
朝日泥湖は1940年生まれ、「船団」句会の長老のひとり。以前は朝日彩湖という俳号で句集『いけず』(青磁社、2007)があるが、句集刊行後改名したので、今のところ別名義で1冊ずつということになる。
 普通の町普通のくらし風光る
 おぼろ月ラップかけずにチンをする
 さくらさくらあんた何人殺めたの
 また負けた風船飛ばしてあげたのに
 話したいんだ、六月の大きな樹
 サバンナの風は遺伝子赤い風
 表札は父娘別姓秋日和
 外はぱりっと中はふわっと冬日和
 秋の海おおきなものが消えてゆく
 散在もええねん老朽船の春



『乙女ひととせ』vol.08は、同志社女子大学表象文化学部創作講義の作品集。今年から講義名が「クリエイティブライティング」に変更されたそうだ。講師は塩見恵介氏。受講生による作品のほか、「平成の名句鑑賞」「私が選ぶ!平成イチオシ句集」などのページもあり、令和のはじめに平成を振りかえった企画がならぶ。
ほとんどがはじめて俳句の実作をおこなう女子大学生であるが、現代の女子大学生に交じりながら時に発想を飛ばし、時にベタな笑いをひきおこす塩見氏の舵取りで、創作や鑑賞を楽しんでいる様子がよくわかる。
 プールでは戦争にてのひらの銃  趙蘭
 ごめんねは苺ミルクで総精算  西山萌花
 お人好し鎖骨で金魚を飼う季節  松本志穂

 クリスマスゼミの教授がサンタさん  加藤雅
 秋の夜ちょっと火星へお買い物  松宮静香
 コスモスをいつか見下ろす日が来たら  辻田真波
 たんぽぽを咲かせて天と地の和解  塩見恵介


2020年4月10日金曜日

私は異教徒


論考にもならない、駄文である。





どちらかと言えばこれまで、マジョリティではなくマイノリティの側に生きてきたと思う。

自分のいる共同体は心地良い空間で、私にとってこれほど安心する場はない。
一方、自分の分野に興味を示さない人たちは、別種の、不可解な異人に見える。

私にとっては音楽ファンも理解できないし、スポーツの話題に興ずる人たちは、ほぼ異教徒にしかみえない。
まあ五輪もW杯も、日本人が買ったと聞けばなんとなく嬉しいし、テレビを見ていれば主要な選手や話題は何となく頭に入るが、試合を観戦することはまったくない。
だから私は、博物館や史跡を見に旅行することはあるが、スポーツ観戦やライブのために旅行(遠征)する人が実在するのが、よくわからない。異文化そのものだ。
私はたぶん、よっぽどよく知っている人が出場するというのでもない限り、母校が甲子園で優勝したとしても観には行かないし、それが吹奏楽や将棋の大会でも同様だろう。

異教徒たちが自分たちに共有の価値観にもとづいて、その価値観を当然のものとして交歓しているのを見るとき、実に不可思議な気分になる。
彼らは、私にとって不可解なジャーゴン(業界用語)を取り交わし、私にとって何の魅力もない対象に熱狂し、敬愛し、共感し、涙している。
そして、当人たちが意識しているかどうかわからないが、「その」共同体が、とても排他的で、「私」の仲間入りを拒んでいるような、そんな被害妄想におちいる。
私にとってスポーツや音楽ほど遠い存在ではなくても、
 たとえば、私の知らないマンガやゲームに熱中している人たち、
  私がまったく関心を持てない小説や俳句を愛好する人たち、
に対しても同様に感じる「疎外感」である。

特にSNSという場は、小さな共同体を作りやすく、そのうえ共同体内部で熱が沸騰しやすく、それは共同体内部の結束を高め、共感しあうにはとても心地よく、しかし、だからこそ圧倒的に排他的で、共同体の掟を理解しない「異教徒」に乱されることを、極度に怖れ、警戒し、殺気立っている。

少なくともそう見える。

もちろん、私自身もそう見えるのだろう。
私自身は、明らかに中立ではなく、また、中立を自称したこともないつもりである。

くり返すように私はスポーツや音楽より読書が好きな子どもであったし、数学や物理の問題には今も昔も関心を持てないし、同時代の『少年ジャンプ』連載漫画より往年の『ガロ』掲載の白土三平や水木しげるに親しんできた。
そうした人は、全国で数えれば少なからずいるはずだけれども、全体的にみればやはりマイノリティであり、極端といっていいほど偏向している。

生まれも育ちも関西であるし、現代俳句協会会員であるし、なにより俳句甲子園で俳句に出会い、「船団の会」会員として口語俳句を作っている。
中立なわけがない。偏向そのものだ。

いつ自覚したのか覚えていないが、私は、たいていマイノリティの側に生きてきた。
しかし、たしかに変わり者という扱いではあったけれど、小中高と、それなりに仲間には恵まれ、部活動では部長としていい経験をさせてもらった。
大学・大学院に進んでからはよき師、よき先達に出会って、文学(怪異学)探究と、俳句の実作・評論を続けている。
案外自分は、マイノリティに見えて、特別でも何でもないのではないか。

そうした自覚が確信に変わったのは、インターネットのおかげである。
インターネットの世界にはおそろしくひろいろな人が、いろいろな情報発信をしていて、自分の好きなジャンルについても多くの人が知見を公開している。
それを見ていると、なんのことはない、私のような趣味嗜好の人はどの年代にも一定数存在するし、そのなかには私などが及びも付かないほど深く、また膨大にして微細にわたる知識と、そして行動力や企画力をもってその知識を活かした表現活動を行っている人たちが、存在したのである。

少なくとも、私は、孤高の存在でもなんでもない。
むしろ、平凡な、ありきたりの人間にすぎない。

そう自覚するにつけ、ことさらマイノリティを自負し、一つの価値観を信奉するようなやり方に、違和感を覚えるようになった。
それは明確な排他主義であり、別のマイノリティを排除しているだけではないか、と思うようになったからである。
私自身が中立でありえないのは確かとしても、「異教徒」の話を聞き、お互いなにが違うのか、なぜ違うのか、聞く機会を持ちたいと思った。

私の中にある「マイノリティ」は、個性として恃む限りは私を意味づけるけれども同時に異教徒との分断を生み、私の中の「平凡」は、私をその他大勢に埋没させるけれども異教徒との共感を生むはずである。

幼いころ、自分の好きになれないスポーツや音楽の祭典に浮かれる人たちはまったく理解できず、高校野球の中継でアニメ番組が放映されないときは大泣きしたし、オリンピックで連日大騒ぎしている人は、本当に大嫌いで、心底馬鹿にしていた。
しかし、自分が好きになれないものを好きな人たち、に対する関心が芽生えてきた。
そこにある熱は、もしかすると私が水木しげるに捧げる、あるいは桂米朝の落語にもつ、そうした熱と同じなのではないだろうか。

以前、BL俳句誌『庫内灯』の発刊編集に、少しく関わったことがある。
私自身が腐男子ではないのにそんな企画に関わっていたのは、上に書いたような、私の感じない熱、「萌え」によって動く人たちと仕事をするのが、面白かったからである。

自分が、「マイノリティ」であることと、「凡庸」であることは、併存する。
そこに私が、ある。
すくなくとも「マイノリティ」=「孤高」であることを根拠とする俳句は、私ではない。

そう思うように、なったのである。



2020年3月8日日曜日

【転載】京都新聞2020.02.11 季節のエッセー(9)

「梅の香り」

長浜盆梅展の名は滋賀へ移り住む以前から知っていたが、見たことはなかった。
規模、歴史、ともに国内一といわれる梅限定の盆栽展。梅だけ。
盆栽を見る趣味のない素人が行って楽しめるのか。不安もあったが、昨年、せっかくなので妻と二人で乗り込んでみた。
明治二十年に建てられた慶雲館(けいうんかん)平日なのに次々と人が入っていく。
案内に従って進むと余寒ただよう大座敷に、梅の古木を植えた大鉢が、どかん、どかん、と遠慮なく並べられていた。
空間いっぱいにねじれて広がる黄梅。
太い幹にびっしり咲いた紅梅。
一見、枯れたように痩せた枝に咲くささやかな白梅。
今にも折れそうなほど細いものもある。どれも百年二百年、中には四百年といったキャリアもあって、それ自身の生命力とともに、守り伝えていった人たちの努力に圧倒される。
ところで盆梅にはそれぞれ銘が付けられたものがある。
古木でも無銘のものがある理由はわからなかったが、枝ぶりが龍っぽいとか、痩せて仙人に見えたのかなとか、銘の由来を考えながら見るのも楽しみ方の一つだろう。漢詩や和歌にゆかりと思われる命名の中に一つ、気になるものがあった。
「乱馬」
あれ、どこかで見たような。というより私たちの年代だと、どうしても一つの可能性しか思い至らない。まさか。
同行の妻を呼び止める。やっぱり同じ反応。まさか。乱れ馬に見えたのかな。それにしては大人しい。でもこんな言葉、一般にあるか。
ぼそぼそ話していたら、ボランティアガイドの方が「マンガが由来だそうですよ。山口さんという方が命名で」と説明してくださった。やっぱり。
長浜市「声の観光大使」をつとめる声優の山口勝平氏が、同い年の盆梅を、出世作となったアニメ「らんま1/2」の主人公早乙女(さおとめ)(らん)()(ちな)んで命名されたそうだ。
高橋留美子さんの原作で、再放送をふくめ何度もくり返し見たアニメ。印象的なオープニング、エンディングのテーマ曲が頭の中で何度もくり返し再生される。意外な取り合わせだが、梅からしてみれば、漢詩に因もうがアニメに因もうが、人間の勝手な都合かもしれなかった。
梅の香に包まれた一日。
とはいえこの日、梅の句は一句もできなかった。

2020年2月23日日曜日

【転載】京都新聞2019.12.23 季節のエッセー(8)


「鬼を払う」

なやろう~なやろう~
赤い唐様の着物、足もとは高下駄(げた)左右の手にはレプリカの盾と矛。巨大な仮面をつけて、奇妙な呪文を叫びながら、ゆっくりと歩き続ける。
十数年前、三重県で体験した、「追儺のまつり」だ。
平安時代に宮中で行われていた大晦日(おおみそか)の行事を再現したもので、方相氏という四つ目の怪人が矛と盾を打ち鳴らし、侲子とよばれる子どもたちを引き連れて、目に見えない鬼を払う。節分の原型といわれる祭りである。
私はその年、斎宮歴史博物館の募集した方相氏役に応募し、抽選で選ばれた。そして冒頭の格好で、鬼を払う役をつとめたのだ。
年も押し迫った寒空のもと、慣れない高下駄を引きずりながら叫んでいると、後ろのほうから聞き知った声がきこえる。一緒に参加することになった先輩や友人たちだ。
無役の彼らは後ろからついて歩きながら、方相氏の声に唱和する。
ところが、なんだか関係のない言葉がまじっている。
なめろう? 
なやもう? 
なやごろう? 
最後のは銭形警部役で有名な声優さんじゃないか。ふざけすぎだろう。ひどい。

なやろう〜。なやろう〜。

ところがだんだん、後ろの声にひかれて、自分でも何を言っているのか分からなくなる。
なやおろ~(違う)、なやろろ~?
ついには「なあおお」と意味の分からない声を上げたまま、祭を終えた。
先輩たちがにやにや笑いながら、お疲れさまと声をかけてくれる。疲れたのは半分あんたらのせいだと思いながら、係の方に謝る。ちゃんとできなくてすみません。
あとから気づいたのだが「なやろう」は「儺やろう」で、鬼を遣るという意味だった。平安神宮で行われている追儺式では「鬼やろう」と掛け声を上げているそうだ。
それが分かっていれば混乱することはなかった。疲れと無知でいい加減な呪文を叫んでしまったのである。あの年、三重県に病気が流行(はや)っていたら、その責任は鬼を払えなかった私の責任かもしれない。
なにはともあれ、鬼を払ったらそのあとは福徳がやってくるのを祈るばかり。やってくるのは宝船に乗った七福神か、(かさ)をかぶったお地蔵さまか、それとも今なら赤い服を着たおじいさんだろうか。

2020年2月19日水曜日

句集祭・始末


関西現代俳句協会では、毎年年末に、忘年会をかねた句集祭というイベントがある。
その年に出た協会員の著作(句集・評論集など)を合同で祝う、出版パーティのようなものである。
聞くところでは鈴木六林男あたりから始まったらしく、日ごろはあまり交流がなくても句集刊行を祝い、お互いにどのような句を詠むのかを知ろうという、関西ならではの交流の場である。結社や、都道府県を越えた連帯感を持っているのは、関西地区の伝統であり、他地域には見られない特色である。
活況だったころは、その年刊行された句集から引いた一句を特大の垂れ幕に揮毫して会場じゅう一面に飾ったりして、なかなか壮観だったそうである。
今ではそこまで人数もいないので、一句紹介と著者からのコメントを紹介する程度で、あとは会場テーブルに置かれた句集などを手にとりながら著者と歓談を交わす、まあ、忘年会が始まるまでの交流会といった雰囲気ではある。
そういえば先年亡くなった伊丹三樹彦氏は、毎年のように句集や、あの「写俳句集」を刊行しており、私が参加しはじめたころにはもうパーティには参加されていなかったが、毎年電報で忘年・句集祭への熱い祝辞を寄せていたことが印象的であった。

とはいえ、せっかく句集があるのに句集を「読む」ことをしないのはもったいないなと、ひそかに思っていた。時間の関係もあるのだろうが、一句紹介と著者コメントだけで、句集単位での鑑賞や読解のチャンスがないのである。
昨年はたまたま、船団の会員が2人句集を刊行し、また会場でも1冊別の句集をいただいたので、手元に、句集祭に出展された句集が3冊ある。
本当なら1冊ずつ鑑賞しようと考えていたのだが、なかなか書けないでいるうちに、年をまたぐどころか「今年度」も終わろうとしている。これではいけないのでせめて句集から目に付いた句をいくつか紹介し、句集祭の個人的な始末をつけておこうと思う。

ご恵贈いただいた著者の方に感謝します。

千坂奇妙氏、『第一句集 天真』(星湖舎)。
 瓢箪のくびれは神のくしやみから
 にやまにやまと筋金入りは黒海鼠
 夏痩せて女ちりめんじやこめつてい
 日向ぼこ靴下脱いでふと嗅いで
 象よりも寝釈迦大きくおはしけり
帯文は坪内稔典氏、序文は大島雄作氏。

藤井なお子氏、『ブロンズ兎』(ふらんす堂)
 仙人のまばたき京のアマリリス
 考へる人のかたちに似て桜
  ルオーWinter
 欲しいのは風と逆光かいつぶり
 空蝉のほかに良いものなどなくて
 落とし穴掘つて隠しておく晩夏
解説は坪内稔典氏。

浜脇不如帰氏、『句集はいくんろーる』(私家版)
 青森で泡盛醸すユビキタス
 妙案が浮かんじゃ沈む三尺寝
 龍(じゃ)踊りたい汝(な)が先けんね起きっとは
 どこまでが自分なのかな踵枯る
 春の山まぶた閉じられ忘れられ