2013年2月10日日曜日

戦闘美少女・コウノサキ (下)



先輩作家が彼女の作品に「安心」感を抱いたのに対して、同世代の批評家が見いだした彼女のキーワードは、「寂しさ」であった。

『新撰21』(邑書林、2009)に収められた100句は、「誰かの故郷」と題されている。
これを、松本てふこは「神野紗希の俳句は、淋しさから生まれる」と、いささかショッキングな語りだしで評した。

淋しさやサルノコシカケ二つある   「誰かの故郷」『新撰21

同じく山口優夢は彼女を「さびしさを見つける女」と名付けた。

青嵐ピカソを見つけたのは誰

山口氏も指摘するとおり、この句には誰かがピカソを発見した、という機知めいた言い回しのかげに、見いだされなかった「ピカソ」の可能性が暗示される。
「ピカソ」は、死をもってなお、おそらくは百年後でも語られるだろうが、見いだされなかった才能は、死とともに消え、二度と語られることはない。

<シンク暗し水中花の水捨てるとき><天道虫死んではみ出たままの>の、痛み。

<鹿の声届かぬ声だとも思う><いなびかり象は象舎のほか知らず>の、諦観、無力感。

<凍星や永久に前進する玩具><ロボットに忘却はなし冬の虹>の、無機質への違和感。

作品全体に表出する「寂しさ」は、わかりあえない苦しみ、二度と会えぬ痛み、通じ合えない悲しみ、いわば、他者が他者であることに対する「寂しさ」である。

  芋ふたつ並んで違う方を向く


2012年、神野紗希の"第一句集"『光まみれの蜂』(角川出版)が発刊された。
初期句集『星の地図』(まる工房)より抄出の16句を含む256句が所収。
本書には、タイトルにもとられた

   ブラインド閉ざさん光まみれの蜂

をはじめ、「光」にまつわる句が多い。
<光る水か濡れた光か燕か><桃咲いて骨光あう土の中><ある星の末期の光来つつあり>などが章冒頭に置かれていて読者にも印象深いが、ほかにも多くの句がおさめられている。

こうした、「光」を希求し、反応する姿勢もまた、どこか「寂しい」。
周囲の「光」に反応するためには、作者自身を含めた周辺は、暗くなくてはいけないからだ。
暗さへの自覚と、逆行する「光」への希求は、初期作品の真摯な「青春性」に通底するものがある。

  寂しいと言い私を蔦にせよ

神野の代表作に数える人もいる、印象鮮明な作品。
『星の地図』から「誰かの故郷」、『光まみれの蜂』まで収録されていることからも代表作のひとつなのだろう。

情愛を蔦に喩える表現は、謡曲「定家葛」の例を出すまでもなく類型的である。
しかし、句に込められた鬱屈と、解放への希求をもって「青春性」と呼ぶなら、この句はまさに「青春俳句」の代表作として、長く口承されるだろう。


歌人、穂村弘は、文芸の魅力を「共感(シンパシー)」と「驚異(ワンダー)」に二分する。
「光」にあこがれる作者の「寂しさ」は、普遍的な人々の不安に寄り添う「共感」に属し、日常をトリップするような「驚異」の楽しみは少ない。
言葉の上のトリップ感は、むしろ、より日常的な作品にこそ起こりうる。

カニ缶で蕪炊いて帰りを待つよ

カ音の連続が楽しい句だ。
季語「蕪」と、「カニ缶」との落差に感興を覚えるのは、歳時記的な美意識に縛られた、「俳人」的な発想にすぎない。作者は、歳時記との断絶を痛んではいない。
彼女は歳時記とは無縁に当たり前に日常を楽しんでいて、日常的に誰もが感じることのできる非日常の瞬間(詩)が、作品をつうじて表出する。

<大木と見れば抱きつく夏帽子><コンビニのおでんが好きで星きれい><みんなよくはたらく桜どんどん散る>などの句は、「抱きつく」「~が好き」「よくはたらく」などの表現が、俳句としては例外的に直截的で、稚拙な(舌足らずな)印象を与える。
だが、そこに演出された「無垢」性は、「等身大」の、「愛すべき」「女子」像として、充分に許容可能ではないか。
いや、むしろ女性たち自身にこそ愛される、ありたい「幸福な私」像なのではないか。

むろん「等身大」と「理解」されることは、作者の個性を希薄にする。それは「等身大の女子」として概念化され、神野本人である必然がない。

しかし、(硬直した近代文学観からみれば逆説的だが)俳句にとって個性が希薄であることは、決して作家、作品にとってマイナスではない。
「無個性」というよりも「無私性」というべきだろうか。田捨女6歳の作とされる<雪の朝二の字二の字の下駄のあと>のように、作者名から解放されてなお記憶される、定型詩の本性ともいうべき力である。

  現代詩・紫雲英・眩暈・原子力

言葉遊びに導かれて「詩」と「原子力」に向き合う作家の日常が重く姿を現す。
傑出した秀句ではなくとも、2011311日後の日本で生まれた作品として、確かに記録されてよいものであろう。

類型性も、無私性も、含み込んだうえで神野紗希は、すぐれて「現代」=ゼロ年代を代表する俳句作家なのである。


先にあげた斎藤著では、おもに男性オタク目線で欲望される虚構存在としての「戦闘美少女」が語られていた。

しかし荷宮和子は、「セーラームーン」を例にとり、一見あざとく露出の多いコスチュームや戦闘シーンを含めて「セーラームーン」を支持した女性の目線を重視する。
それは、「失いたくない素敵な日常」を謳歌する女子高校生としての「少女」であり、「日常」を守るために自ら闘う「戦闘美少女」の姿であった。

外山一機が神野の句集について、「何の値打ちもない」と過激に評したとき、その批評で見るべきはむしろ次の一節であった。
しかし僕たちは、「社会がまだまだ未熟で、矛盾したものである」という認識を、それ自体非常に正しいものであると認めつつもそれを共有することをあえて躊躇する者を知っている。それは神野紗希であり、山口優夢であり、谷雄介である。・・・・・・どういうわけか彼らよりもいくぶんか先に生まれた人々は社会を否定的にとらえがちだったが、彼ら自身の前においては「世界はとても居心地の良いものとして存在する」。

神野にとって「日常」は、「居心地の良い」、愛すべき大切なものである。

等身大の、現代を生きる実感を根拠として表現していく限り、彼女の俳句は、先行するあらゆる俳句に隔絶する。

そして彼女は先行する俳句と対峙し、自らの位置を獲得すべく闘わざるをえない。

  麦秋にこんな爆弾を落としておいて  spica つくる 9月17日
   結構な結婚式で松に雪  spica さはる つくる 2月1日


繰り返す、神野紗希は無垢にして攻撃的な、「戦闘美少女」である。



参考文献(文中にあげた以外のもの 2012.02.14追記)

2 件のコメント:

  1. ローストビーフ2013年2月10日 15:27

    青春性に言及している部分の
    「寂しいと言い我を蔦にせよ」
    は間違っていますよ。

    「寂しいと言い私を蔦にせよ」
    と、「私」が正しいですよ~!

    返信削除
    返信
    1. >ローストビーフ氏
      指摘ありがとう。訂正しました。

      失礼しました

      削除