2011年6月9日木曜日

連載/時評/評論


ご無沙汰しています。

本業のほうの発表準備とか、いろいろばたばたしてすっかり更新ができていませんでした。
「俳句なう」のほうは順調に続けているので、そちらでアウトプットできているのも、ちょっと書く気減退の一因かも。


最近、いろいろ考えさせる文章に多く出会ったので、書きたいことは貯まっているのですが、うまくまとまらない状態です。



現在進行形な話題から。

ご存知の方も多いかも知れませんが、朝日新聞の「ニッポン人脈記」/で、「俳句 師を選ぶ」というシリーズを開始しています。
(ネット上で読めるのは第一回のみ)

今日は6回目、池田澄子さんが登場。
代表句「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」、「先生が『行け』と扇動するから、世の中で駄目でも、この線でよし行っちゃえ」という、まぁイケスミ・ファンには知られた話ではあるが、改めて師弟の関係を偲ばせるエピソードである。


この連載の第二回の金子晋氏は師、永田耕衣との師弟関係について次のように語っている。



「以来、永田耕衣という俳人を徹底的にしゃぶりながら飽きることがなかった」。


97年に(注、耕衣が)亡くなる半年前、金子は32歳上の師の爪を切ってあげた。
その爪は今、金子の自宅の書斎にしつらえられた祭壇に、永田の大きな遺影とともに供えてある


こうなるともう、信仰に近いものがある。

こうしたつながりが、俳句によってもたらされたこと。そのこと自体は、他人が否定すべきものではないし、また他の表現でも、ありうることではあるのだろう。
ただ、俳句の場合、といっておかしければ、「伝統」を名乗る多くの文化活動の場合、その師弟関係が必須事項として語られる傾向があり、私にとって奇異に写るのである。

俳句の場合は、「座」の問題、さらに「作者/選者」ということに絡んで論じられる。

しかし、何もかもさらけ出して預けてしまうような、文芸表現を超えたレベルで人間として預け預けられるような精神論というのは、議論として成り立っているのだろうか。実作者自身にとっては最優先であったとしても、鑑賞者、読者にとっては精神論は、「文芸表現」としては二次的なもの、として扱わざるを得ないのではないか。



同じ回には宇多喜代子氏も登場していて、金子氏と親しく耕衣にも紹介してもらったが弟子入りはしなかった。



魅力的で面白いジイサマだと思ったが、門をたたいて、この人について行こうという気にはならなかった。
「人食いザメに丸のみされるようで怖いというか、自分が潰されてしまうというか」

俳句にとって「師」とは何か。いわゆる、結社としての師弟関係を経験していない私にとってはこうした感情はまったく未知であり、大きな謎として常にある。



「信仰」といえば、彌榮浩樹氏の評論「1%の俳句」、一部の人からは「信仰告白」と受け止められたようである。


「詩客」俳句時評 第5回

週刊俳句 彌榮浩樹「1%の俳句」を読む 関悦史

私も「俳句なう」で彌榮氏の評論をとりあげ、いささか違和感があることは表明したが、「信仰告白」とまではとらなかった。

彌榮氏の「1%の俳句」と「99%」との差異が恣意的以外に判断できない、のはまぁその通りとして、彌榮氏のあげる「写生」の特質は、俳句を一番俳句らしくしている根拠、ではあると思われる。

「写生」や、短さからくる言葉の「一挙性」「露呈性」などを強調することは、俳句評論のなかで例のないことではないけれど、なんとか俳句評論内部の言葉ではなく、一般「文芸評論」的な言葉で綴ろうとした、彌榮氏の姿勢は大いに買うべきであろう。

もちろん、俳句らしい、からといって、名句である、ということではない。俳句らしくなくてもスバラシイ句はあっていいのである。彌榮氏は「俳句らしさ」を外れることは意外に簡単だ、というけれど、一度決まったルールを破って成功するのも意外に難しいのであり、だからこそルール破りでの成功例は少なく、希少価値がある。

私も違和感は覚えるが、むしろ彌榮氏の議論を叩き台として、「俳句らしさ」(私の用語でいえば俳句的something)について考えてみたい。
彌榮氏の「1%/99%」の議論は、おそらくピラミッド型のヒエラルキーをイメージしている。これを平面的な、同心円のようなモデルにあてはめれば、中心の「俳句らしい」俳句と、周縁の「俳句らしくない」俳句、また「俳句らしい」とおもっている大多数、のような区分けが、もう少しできるのではないだろうか。



楽しみにしていた文章が、公開された。
西村麒麟さんの、阿部青鞋鑑賞だ。


カモン!火門集(阿部青鞋『火門集』)

とにかく麒麟さんが、阿部青鞋の句を心から楽しんでいるのが伝わってくる。それもよくわかる、なんせこんな句が並んでいるのだから。



赤ん坊ばかりあつまりいる悪夢
感動のけむりをあぐるトースター
少年が少女に砂を嗅がしむる
釣人のうしろ鶯きゃーと鳴く
ひきだしに海鳥がきてばたばたする
阿部青鞋という作家は、比較的新しい人のわりに俳句表現史では扱われることが少なく、扱われても大きくとりあげられることはまずないのだが、本当にケッタイな句を詠んでいる。
それに対し、いちいち律儀にツッコム麒麟さんの文章スタイルは爆笑必至。個人的にはR-1グランプリでも通用すると思っている。
ともかく麒麟さんというのは、こういう、ちょっとどう読んだらいいのか立ち止まるような、「俳……句、ですよね?」的な句を見つけてくるのが、天才的にうまいのだ。
皆さん、是非笑う準備をしてご覧ください。



ここまで書いて、さきほど気付いたが、週刊俳句・時評で神野紗希さんが「船団」89号の特集「マンガと俳句」をとりあげている。




週刊俳句 Haiku Weekly: 【週刊俳句時評第34回】昭和二十年ジャムおじさんの夏 「船団」第89号特集「マンガと俳句」 神野紗希

拙句もとりあげていただいているが、紗希さんにとっては「物足りない」特集になってしまっていたようだ。
これについては「俳句なう」で「漫画的一句」を担当している建前上、すこしマジメに考えてみたいと思っています。


※6/9深夜更新。その後、10日未明、加筆修正。



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