2011年5月14日土曜日

俳句評論inネット

 
先の連休、ふたつも詩歌サイトがオープンした。

ひとつは、自由詩・短歌・俳句の「三詩型交流企画」を標榜する、「詩歌梁山泊」による「詩客」

日めくり詩歌、三詩型それぞれの時評、それに「戦後俳句を読む」欄まであって、やたら執筆者が俳句関係に偏っているきらいはあるものの、重厚充実の布陣である。

俳句時評の担当者は特に注目。
山田耕司、外山一機、松本てふこ、冨田拓也、ということで、面識のある方もない方もいるがいずれも信頼している書き手ばかりなので、頼もしい。すでに3人までが文章をアップされており、三者三様、期待どおりの文章であった。

それぞれの個性は決して時評の枠だけに留まるものではないと思うので、これからどんな文章がアップされるのか、楽しみである。

また、高山れおな氏の「日めくり詩歌」では、同じテーマでふたつの句を並べて勝敗を判ずる、「歌合」ならぬ「句合」の形式をとっている。岸本尚毅氏の「名句合わせ鏡」、坂口昌弘氏の連載などを思い出すが、勅撰集に倣って「竟宴」を催した趣向を思い出すなら、むしろ本
当に歌合に倣う心境なのか。
いずれにしても一度に二句、違う趣向の句が読めるわけで、読者としては二度美味しい。


もうひとつは、神野紗希、江渡華子、野口る理の三人が組んだspica

同人誌とか団体とかではなく、紗希さん自身が指摘した俳句界の新潮流「ユニット」の形式である。東京ではほとんど毎週のように飲み歩いていると聞く(失礼)無敵の三人であるから、いつかはなにか出るのではないか、と思ったが、こういう形で公開された。


どんな古典も、どんな新しい潮流も、全ては読む作業から始まりました。
そして、世界では、日々、新しい俳句が作られています。
今回、読むことが好きな仲間たちで、俳句を読み、語りあう場所を作りました。
「創刊のことば」は、とてもまっすぐで、よく知る三人の、そのままの口調である。(ネット越しではお酒を交わせないのが残念であるが)
甲府へ飛んだ山口優夢がまじめくさって俳句を語っていたり、高柳克弘さんがB級映画から震災俳句について語っていたり、江渡ちゃんが酔っぱらった変な絵を提供していたり、まぁ、俳句中毒者三人がおもちゃ箱をひっくりかえして楽しんでる、というのが伝わってくるサイトである。



さて、いずれも充実のサイトなのだが、……残念ながら充実すぎてすべてを読むのはかなりしんどい。

いや、実は冗談口ばかりではなくて、はたしてこうしたサイトが、だれに、どう発信していくのか、どう「読ませて」いくつもりなのか、ということと関わる。

よく言われるように、ネット媒体は、俳句批評、俳句鑑賞について、かなりの活性化をもたらしつつある。
一般に「読む」より「詠む」ほうを重視する実戦型、稽古式俳句の風潮のなかで、俳句を「読む」ということについて、これほど広範囲に、何度も何度もくり返し、たたみかけるように言及される状況、短兵急ともいえる積み重なり方は、おそらく俳句史上でも希なものであろう。

しかし、ネットは、発信という面で見ると即時性、公開性には優れているが、議論を積み重ねる、ということについてはやはりまだ脆い。ネットという媒体が、じっくり読んで腰を据えて相手をする、というより、作業の合間に即時的に、反射神経で対応してしまう間隙を、もともと持っているのである。

その意味では、上にあるような、実直に誠実に俳句を「読む」行為が、果たして今のような形で、(慌ただしささえ感じるネットの海で)プレゼンされるべきなのかどうか、ちょっと判断に迷うところである。



そんなことを考えていたら、『群像』新人文学賞が出ていたのです。

ご存知のとおり、彌榮浩樹さんの「1%の俳句―一挙性・露呈性・写生―」が、54回群像新人文学賞評論部門に輝いたわけで、なんともめでたいことである。
受賞に関してもっとも注目すべき事は、ご本人の仰るとおり、



「俳句とは何か」を約三万字で一気に素描すること、それは、いつか誰かが行うべき作業だったはずです。しかも、<俳句について格別関心があるわけではないが機会があれば知るにやぶさかではない人たち>の眼前で。


受賞の言葉『群像』2011.06

ではないだろうか。
彌榮さんの評論の、内容については、実は私の立場からすると全面賛同できるわけではなかったり、従来の言説の言い回しを変えただけではないか、と思えるところもある。
しかし、この、俳句評論をめぐるスタンスについては、全面的に賛同したい。この地点から評論をスタートした上で、価値観や目指す方向の違いについてはあらめて議論しあえればありがたい、と思うのである。

俳句評論が、俳句を「読む」行為が、俳句専門誌にしか載らず、俳句愛好家たちにしか(それどころかそのごく一部にしか)提供されていない、ということこそ、俳句評論の一番の不幸であり、それが、かの悪名高い「第二芸術論」を現代にまで引きずってしまっている、俳句評論の未成熟をしめすものなのだ、と。


もういい加減、山本健吉からあとの、本当の「現代俳句」について、「俳句一〇〇年」後の問いを、議論するべき時期に来ているはず。

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