「関西俳句なう」で日曜更新の「俳句な呟き」欄で、川柳句集二冊を鑑賞させていただいております。
俳句な呟き vol.20
一冊は、渡辺隆夫さんの『川柳 魚命魚辞』(邑書林、2011)。
もう一冊は、小池正博さんの『水牛の余波』(邑書林、2011)。
渡辺句集は湊さんから、小池句集はご本人から、ご恵贈いただきました。
ありがとうございました。
まだ上半期も終わっていないのに、二冊も刺激的な川柳句集が出ているわけだが、二冊ともある意味ではとても「漫画的」であるにも関わらず、やはり渡辺句集は「川柳」の性格を色濃く持っている、と感じられた。文句なく面白いのだが、笑いの質が、ちょっと俳句とは違うのだ。
それに対し、小池句集は、いわゆる先入観で読む「川柳」とも、また私の知る「俳句」とも、
すこしずつズレる面白さを持っている。「船団」的な言葉×言葉(取り合わせ)のおもしろさを、さらにもう一歩踏み込んだ、今私にとっては「漫画的」という表現しかできない類の面白さである。
「季語」という共感素材のストックに頼らず、自力で言葉を組み合わせて、無理のない、不思議な世界を造ってしまっている。それがとても愉快であった。
しかし、そういう「虚構」を立ち上げる手練の面白さから見ると、邑書林の「帯文」には、かなりの違和感を覚える。
消えてゆく言葉たちを生み続け/言葉と言葉の新しい関係を創作しながら/その言葉すらきえてゆく矛と盾/蕩尽の文芸を自覚しつつ/なおも川柳の言葉を模索してやまない/著者渾身の第一句集と、ここでは「言葉」への自覚的な遊び心が指摘されていて、まぁ、わかるのだが、問題は背に
詩性川柳の真打登場
とあることだ。
ここにきて私は戸惑う。詩性川柳とはなにか。
たとえば手許にある『セレクション柳論』(邑書林、2009)所収の小池正博「現代川柳のアウトライン」には次のような文章がある。
一方、関西における川柳革新の中心的存在であったのが河野春三である。……川柳は彼にとってひとつの文学運動なのであった。彼は近代的自我の表現と詩性とを表裏一体のものと考えていた。川柳に「私」が導入されたとき「詩」がはじまったと春三は言ったそうだ。
またネット上では次のような文章を拾うこともできる。
ここでいう川柳の三要素とは「うがち」「おかしみ」「軽み」であるという。
昭和二十三年、一時川柳から手を引いていた春三は、ガリ版刷り、八ページほどの小冊の個人誌「私」を創刊する。
∧川柳・句と評論誌∨と銘うち、詩性川柳を標榜し、三要素を否定し、人間探求へ川柳の舵を大きく切ってゆく。それはまだたった一人のさささやかな出発に過ぎなかったが、評論誌として、川柳革新に心血を注ぐ活動に、全国から多数の好作家が結集し、やがて全国規模の革新運動に発展してゆく。
果たして小池の作品を、「おかしみ」「軽み」と無縁の、「人間探求」や「近代的自我」といった性格であらわされる「詩性川柳」ととらえていいものだろうか?
門外漢(=不勉強)であるためにこれ以上は踏み込まないが、現代俳句のバラエティを認めなければならないのと同様、現代川柳のバラエティも見ていく必要があるのだろう。そのなかで析出されていく「俳句的something」と違う、「川柳的something」があるとすれば何なのか、またそれが俳句にとってはどう写るのか。
興味深い課題である。
0 件のコメント:
コメントを投稿