2010年8月19日木曜日

古典?


古典俳句を代表する俳人で、文化功労者の森澄雄さんが、18日朝、肺炎のため、東京都内の病院で亡くなりました。91歳でした。

古典俳句の森澄雄さん死去 NHKニュース

「古典俳句」ってなんだ?

→参照google検索「古典俳句」:
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E5%8F%A4%E5%85%B8%E4%BF%B3%E5%8F%A5&aq=f&aqi=g1&aql=&oq=&gs_rfai=


ご無沙汰しております。
八月冒頭にいろいろどたばたしすぎたせいで、かなりぼうっとしておりました。無為無為。

取り急ぎ先回も告知しましたが、「週刊俳句」に文章載せてもらっています。

『俳句界』2010年8月号を読む 久留島元

先に舞台裏を明かしておくと、拙稿は私の自発投稿というわけではない。「週刊俳句」発行人のひとりであるY君から「“俳誌を読む”のコーナーで書いてみませんか?」という依頼があったのである。
雑誌の指定はなかったのだが、書店に行ったらちょうど『俳句界』8月号が前日に発刊されていたのでそれにした。角川『俳句』は大学図書館で継続購入されているのでよく読んでいるが、『俳句界』は大型書店に入ったときにしか手に取ることもないので、この際だからじっくり読んでみようと思ったのである。
そう思って読み終えた結果が拙稿なのだが、読み直してみると随分腐して書いてあるようにみえる。投稿する前にもちょっと躊躇ったのだが、実際私にとっては「違和感の多い」誌面だったのだし、べつに書評は褒めるばかりが能でもないと思いなおしてそのまま提出した。あとから考えてみれば「週刊俳句」常連には私などよりよほど筆鋒鋭い論者が多いので、あれくらいなら全然許容範囲だと思う。(一応褒めるところは褒めたし。)

ただ総合誌の問題意識がこのあたりだと、改めて俳句ジャーナリズムの不振が思われる。
上の拙稿では触れられなかったけれど人気の秘密を探る!波郷、龍太、楸邨」(P.125~)という記事もなかなかに「?」な記事であった。
この記事は「本誌2009年12月号「昭和俳句の巨星」で行った人気投票で、それぞれ2位、3位、4位に輝いた。あまたいる人気俳人、実力俳人の中で、なぜ今、彼らが支持され愛されるのか。その人気の秘密を詩人、歌人、俳人それぞれに探っていただいた」というもの。
それぞれ、波郷を井川博年氏(詩人)、龍太を井上康明氏(俳人)、楸邨を岡井隆氏(歌人)が担当している。 井川氏の波郷評は波郷のもつ青春性と、波郷に憧れて文学を志した自身の思い出とが完結に綴られていて短いながら読ませる文章だが、一方、井上氏の

晩年近い龍太の文言は、単なる技術論や俳句の骨法からはなれ、本質的な俳人の姿勢や作句の神髄を語るようになる。……今、このように俳句について虚心に語る格調あることばが求められているのではないか。
などという「品格」論は正直、辟易する。
龍太が読まれている理由、「人気の秘密」の一端はもしかすると確かに文章も含めた「品格」にあるかもしれないが、それをそのまま受け取って秘伝めかした「本質」「神髄」など芸道用語で絶対視してしまっては、それこそ龍太の本質なんて絶対に見えてはこない。

岡井隆氏の文章には別の意味で考えさせられた。

虚子に対する秋櫻子。その秋桜子門下の楸邨。そして楸邨の育てたたくさんの人材。/わたしは、秋櫻子に対する藤田湘子まで含めて、かういつた人間模様がおもしろいし、これらの人間関係の深さは、他のジャンルにはない俳句(短歌も同様であるが)独特のものだと思つてゐる。そして、そのことが楸邨(だけではないが)の作品とふかく絡み合つてゐるのを感ずる。俳句は、言葉の芸だけではない。人間と人間の関係が、とくに結社とか俳壇とかいつた集合体を背にして、動いてゐる人間の事業、人間の行為として、作品がある。さういつた観点からみると、楸邨はいよいよ深みを増す。
作品の読みに、積極的に外部情報を取り込んでいこうという立場である。
むしろ俳句は匿名の句会を背景とする「言葉の芸」であり、また一方では結社俳壇を離れた句集になっても読まれる価値がある、と考える私としては、まったく相容れない考えである。
必然的に入ってくる外部情報(作者名や句歴)はともかく、どちらかというとドラマチックに仮構された外部情報(ex.秋桜子『高浜虚子』)までも作品鑑賞に取り入れてしまう、それは個人的な楽しみ方のひとつとしてはありうるとしても、一般的な読みの方法としては斥けられるべきではにないか。

たとえばこうした作家単位の「人気」を探るとき、作家の人物的な魅力をみるのか、作品ごしにみえる作家の魅力をみるのか、で方向性はまったく変わる。
高柳克弘氏をはじめとする若い論客が提唱する「作品本位の鑑賞」という問題意識は、俳句ジャーナリズムの本道ではあまり真剣に論じられていない印象をうける。そのことが総合誌の記事にもあらわれているといえる。

先に、「豈weekly」終刊に際してもすこしかんがえたことがあるが、短期間での批評の積み重ね、問題意識の共有にはネット媒体は圧倒的な優位を有する。(*)
誰かの発した問題意識にとっさに応えられる即時性、ネット環境さえあれば誰でもどこでも簡単にアクセスできる利便性や、コストや制限を考えず自由に使える誌面、コピー&貼付で引用には正確性が期され、またバックナンバーも簡単に閲覧可能、など。
紙媒体の総合誌はそれに比べると、限られた誌面には、つねに新規読者開拓のページを用意せねばならず、一冊を出す手間と労力はネットの比ではない。問題意識の共有、積み重ねは大変難しい。
しかし、一方で継続した問題意識は紙媒体のほうが有利な点もある。
国会図書館に行けば過去数十年の蓄積が残っており、またこれからも(予算のある限り)残り続ける(はず)。その有利を武器に、なんとか総合誌には、根本的な問題提起、根本的な議論、を期待していきたいものだ。



* 関係ないけれど、先日突如勃発した「おっぱい俳句」事件などは、まさにネット…というよりツイッターならではの事件だったと思われる。紙媒体ではありえないし、のちに説明することもできないと思われる、まさにライブ感覚の悪ノリ。踊る阿呆に見る阿呆、で、傍観者の私にはイマイチよくわからないが、ツイッターにはこのような参加者全員の共犯意識/一体感がある。たぶんこのライブ感は即興句会、それも三次会あたりの飲み屋でやる袋廻しに近いものであり、とても俳句的、といって悪ければ俳諧的。
しかして、それが文字として残り公開されるというあたりに、私などは違和感を禁じ得ないわけで、イマイチ参加する気にはならない(ーー;。
不思議な世界である。

参照記事→ B.U.819 【おっぱい俳句合戦】とは(後日補足予定)
 

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