かつて正岡子規は近代俳句を創始し、そして俳句の滅亡をも予言した。
管見の限りでも、まったく同じ論法で俳句の滅亡に言及する文章をいくつか見たことがある。日本の和歌俳句の如きは一首の字音僅に二三十に過ぎざれば之を錯列法(バーミュテーシヨン)に由て算するも其数に限りあるを知るべきなり。語を換へて之をいはゞ和歌(重に短歌をいふ)俳句は早晩其限りに達して最早此上に一首の新しきものだに作り得べからざるに至るべしと。
『獺祭書屋俳話』
そしてその事態は現実になっている。
→ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 〔link〕俳句自動生成ロボット
私にとって謎なのは、「俳句を詠む主題」または「作者の思い」というやつである。
正直に言って、私には俳句を詠む主題も理由もない。だから、今井聖氏のこのような発言に出会うと、当惑してしまう。
いや、「そういう俳句」があるのは、重々知っている。読むのも好きである。だが、少なくとも私には、ないのだ。困ったことに私は今すぐ俳句に関わることを、辞めなくてはいけない。今井 何か表白したい強烈なものがない限り、やる必要がないんです、文芸なんて。大袈裟に言うとデモーニッシュなものがないんだったら、なぜ、自己表現をするんですか、何のために、という感じがするんです。
『俳句』2009.05合評鼎談
なぜ私が俳句を続けているのか。
答えは、楽しいから。おもしろいから。
ある友人は、俳句を続けることをチョコを食べ続けてやめられない感覚に譬えた。(彼女はいまそのチョコを食べていないらしいが)
私はそこまでチョコ好きではないのだが、その表現が一番身に沿っていると思う。
私なりに俳句ができるのは、なにか「おもしろい」と感じたときである。
だから、「おもしろい」対象がなければ、俳句が生まれることがない。
「おもしろい」だけでは、語弊があるか。
京都でお祭りのアルバイトに参加したとき。
動物園でキリンの情事を見たとき。
線路の枕木で首のない蛇の死骸を見たとき。
歩いていて、なにか変な言葉遣いを聞いたとき。
変な言葉が、俳句の型にあてはまると思いついたとき。
しかしそれは、ただ興味を持った、ということにすぎず、「何か表白したい」強烈なメッセージや主義主張があるわけではなく、俳句を通じてそうしたものを発信したいわけでもない。
だから、私の作る俳句は、俳句ロボットが作る俳句と、たぶん全く変わらない。僕は本当に伝えたいことを正確に伝えようと思ったら散文で書きます。
谷川俊太郎『文芸』48-2夏号、穂村弘との対談
もしかすると俳句ロボットのほうが「うまい」かもしれない。
しかし、私が作った俳句は「私」が「おもしろい」と「思う」俳句だが、ロボットの作った俳句は、誰かがおもしろいと思わなければ無限に作られるだけである。
簡単なことだ。人間は、その人なりの理屈や気分や感情で、価値を判断する。
ロボットの句は数式で割り切れるが、私の句は、少なくとも「おもしろい」と一瞬思ったこと、それが残る。
私にとって「作者の思い」とは、その程度にしか過ぎなくて、逆に言うと、その程度の「おもしろい」で「作者」に近づいてこられても、困る。
読者が「俳句」から「作者」を想像して、「作者」と一緒に一句をおもしろがってくれれば望外の喜びではあるが、
「俳句」から「作者」を想像して、それを「私の思い」だと思われると、ちょっと、困る。
それとも文芸にはやはり、残したい、伝えたい「作者の思い」がなければ、いけないのだろうか。
そうだとすると、私は文芸というもの自体を誤解していることになる。
えらいこっちゃ、である。
※附記
文中の「おもしろいという対象」云々は、つまり、自分の外にある、ということなので、個人的には、挨拶とか写生とか花鳥諷詠とかと、同じようなことを言い換えているだけで、さほど特異なことはないと思います。虚子にとって花鳥諷詠が人事を含めた花鳥諷詠だったように、私にとっては言葉だけで諷詠の対象たりうる、ということに過ぎない。
※附記
いささか牽強付会に三橋敏雄の言葉を引けば、
「俳句は感動を詠むっていうけれども、人間はそんなに感動しているんだろうか。生活が無感動でつまんないから俳句を作って、そして俳句ができたときに、あ、これはいけた、この一句はできたな、と思ったときに感動するんだ」
(池田澄子「私の試み」『船団』62号)
「この一句はできたな」と評価する軸(作者)がいるかどうか、そこだけがロボットと俳句作家との違いであると思う。
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