2010年2月11日木曜日

週刊俳句146号

「週刊俳句」146号、盛りだくさん。
生駒氏の四ツ谷龍氏講演会記録や、開成中学校生徒による『新撰21』鑑賞も読み応えがあったのだけど、個人的にはやはり神野・外山両氏の「新撰21竟宴シンポジウムを受けて」が興味深かった。

昨年末に行われた「新撰21竟宴」シンポジウムの第二部では、形式、自然、主題、の、三つの問題について活発な議論が交わされた。当日の議論についてはすでに「豈weekly」73号に全文が公開されている。

http://haiku-space-ani.blogspot.com/2010/01/21_09.html
当日の議論は非常に興味深かったのだが、聞いていて疑問や違和感を覚える点も多々あった。特に、参考資料として提示された外山一機氏の評論「消費時代の詩ーあるいは佐藤文香論ー」(『豈』49号、2009.10。以下、外山論①)の位置づけは再検討の余地があるだろうと考えていた。
その後、続稿Haiku New Generation: 葬送と若書き ―「消費時代の詩」(豈49号)補遺―(2009.12.28。以下、外山論②)も発表されたので、自分なりにリアクションをしたいと思いつつなかなかまとめられなかった。
そこに今回の〔新撰21シンポジウムを受けて〕アトラクションとしての俳句 外山一機「週刊俳句」149号、2010.2.7。以下、外山論③)が発表され、個人的には大変すっきりしたのである。

*(以下、文中敬称略)
シンポジウムでは外山論①の対象となった佐藤文香自身が違和感を表明していて(*1)、言葉は違うが他のパネラーからも批判的な立場の表明が相次いだ。
司会の高山れおなも、外山論①「かなり本質的なところをラディカルに衝いている」と認めつつ、「患者を取り違えている」カルテではないかと評し、この評がおおむね妥当性を以て迎えられたようだった。(*2)
実際、外山論の大きな問題は、いわゆる「昭和三十年代俳人」が射程に入っていないことであろう。
外山論①で現代の高柳克弘、佐藤文香に対置される「かつての新人」は、坪内稔典や「彼にオーガナイズされた」人びとであり、「昭和三十年代俳人」登場以前の人びとなのである。
これは外山論②を読むとなお明確になるが、外山にとって、論ずべき「新人」は摂津幸彦らの登場を以て終わったのである。
従って、外山が現代の「新人」の特徴として注目する特徴が、現代の「新人」よりも上の世代からの「じつは俳句界全体の過去三十年くらいのスタンダード」だ(*3)、というのは、外山自身が冒頭で認めたように、一面の事実ではあった。
ただし、小川軽舟『現代俳句の海図』において、たびたび引用される小林恭二の言葉を補助線とすれば、少し違った見方をする必要が出てくるだろう。


小林によれば、彼ら(注、昭和三十年世代)以前の俳人のメインテーマは「俳句に何を求めるか?」だったが、これ以降は「俳句とは何か?」になる。これは俳句に限らず、この世代の精神的な根っこを押さえた把握だと言っていいだろう。
小川、前掲書。角川学芸出版、2009.02

これに対して外山論①は次のように述べる。

彼らに対して「俳句とは何か」と問うことはほとんど無意味であろう。彼らにとって俳句とはすでにそこにあったものにほかならない。彼らは「俳句で何をするか」と問うのであり、「俳句とは何か」と問うのではない。

外山によれば、現代の新人たちの特徴は、テーマや本質に迫るよりもまず、俳句という文芸(外山論③の用語を使えば「アトラクション」)で何ができるか、を試すのである。
私なりに半可通の用語で言い換えるなら、高柳や佐藤は、「俳句の文脈
」に自身の表現を落とし込むことに、おそろしく無自覚で、おそろしく巧いのである。(作句の「主体」とは、この「落とし込む」行為の主体に他ならない)
外山が使う「消費」とは、高柳や佐藤や、また山口などの「俳句の文脈」が、それこそ前衛も伝統もない多様性をもっていること、その多様な「俳句の文脈」のなかに表現を落とし込む際になんの抵抗もないように感じさせること、などの印象をとらえて謂う語なのだろう。


現代の「新人」たちの俳句と、「昭和三十年代俳人」たちの俳句とは、表現の表面上はさほど違いはないように見える。
しかし、最大の違いは、現代の「新人」たちが「昭和三十年代俳人」たちの後に出てきた、という、まさにその動かしがたい事実だろう。「昭和三十年代俳人」たちが「開拓すべきフロンティア」を見付けられなかった世代(小川前掲書P.202 *4)だとするならば、私を含め現代の「新人」は、自分が俳句を始める前(いや生まれる前?)から「開拓は終わった」と唱えられ続けてきた世代なのである。

佐藤文香が、一見「フェティシズム」を感じさせるほどに既存の価値観に忠実な俳句を作りながら、一方で自ら「狂気」を名乗るほどに「新しい表現」を志向し続けていること。
しかも、近作においては両極の止揚点ともいうべき、注目すべき作品を生み出しつつあること(*5)は、その意味で、極めて意義深いことである。

すなわち、佐藤と、それに高柳や山口、彼らを(一方的な)共感を持って語る私や、おそらく外山にとっても、俳句を「型」通りに習得すればいいもの、などとは考えていない。同時に、俳句を通じて何を伝えるか、という一貫したテーマのようなものも、おそらく持ち合わせていない。それよりも、俳句という表現形式を借りて、どのような表現を生み出しうるのか、試しつつ試す、というような、そのような行為を繰り返しているのではないか。
なにか内なる衝動をもって文芸表現にあたっているのだ、というよりも、俳句という表現形式を借りることで自分自身の可能性を試しているような、そんな印象があるのである。
そこに緊張感をもって臨むか、一種俳諧的な遊びをもって挑むか、は人それぞれだが、もともとの内的な衝動よりもまず「形式」を借り、句会という「場」を借り、伝統的な「季題」を借り、ときに「題詠」や「写生」、またときに先行するテクスト群のテーマを借りる、というふうに外的要因に対することで「表現」を生み出すという姿勢が、彼ら「現代の俳人」には強く感じられるのである。
むろんそれは俳句にとって必ずしも目新しいことではないのだが(*6)、より明確な形で表出していることに「現代の新人」たちの特徴を見出すことはできるだろう、というのが、ささやかな私見となる。



さて、以上のような観測を持っていた私にとって、外山論③と同時に発表された、神野紗希さんの〔新撰21シンポジウムを受けて〕私たちは、なぜ書くのか 神野紗希は、ちょっと衝撃的だった。
正直なところ、日曜日の昼に読んでから今までこの稿が書けなかったのは、自分の中でどう対処していいかわからなかったから、それほど衝撃があったから、である。
外山論①と同時に発表された「主題はあるか」(『豈』49号)に続く形で、紗希さんの決意が述べられている。
私は、創作者として明らかな主題を掲げるべきだといっているわけではない。しかし、書いていく中で、主題、言いかえれば作家自身の志向とか倫理のようなものはおのずと現れるもので、読者として他者のそれに敏感でありたいということと同時に、いち作者としても、自らの志向や倫理のようなもの、みずからがうちに持っているであろう主題に、意識的でありたいと思っている。(…)私自身、俳句をはじめたころは、俳句の「表現行為としての面白さそのもの」に惹かれて、俳句をつくっていた。(…)大学一年生のときにまとめた第一句集にも「これからも俳句を真剣に遊んでいきたい」と書いたくらいである。そんな昔の自分を、今はすこし嫌悪している。(…)俳句は、単なることば遊びではない。

嫌悪、という、強い言葉を敢えて使っておられるのは、そこに覚悟をもっているということだろう。それだけの覚悟のある表現に対して、今、私は満足に応えられるだけの準備がない。「主題」という言葉についてきちんと、それこそ用語の面からも、俳句研究の文脈からも、踏まえてからでないと発言する資格はないと思う。

一点だけ。文中、紗希さんは長谷川櫂氏の「追悼」十句を例示している。
たとえば虚子にも多くの追悼句があり、名句も多いが、私の理解では追悼句も「挨拶」の文脈で捉えられており、虚子個人の「志向や倫理」という語のニュアンスで理解するのは難しいのではないか、と思う。
高山れおな氏が言うように、私を含めて「主題を話題にすることさえ回避する」傾向があることは事実だ。ただ、やはりそこには理由があって、「主題」という語のニュアンスが、かならずしも自分の理解とは違うニュアンスだと思うから、「回避する」のだろうと思う。

話題を呼んだ山口優夢氏の一連の評論(*7)も、そのあたりに接しているだろう。確かに現代でも「戦争」も「病気」も「死」もなくなったわけではないのだから、現に日本では再び「貧困」が問題になってきているのだから、共有すべき「主題」が持てないのは、時代のせいではなく、「僕ら」自身の問題である。問題なのは隣で自殺しているサラリーマンに興味を持てない自分たち自身であり、そのことこそが「ふざけている」のだし、またそのことに気づいている気づいている自分たちの罪悪感もまた「ふざけている」のだろう。

ただ、だからといって明確に、具体的にひとつの一貫したテーマを持ちえたとしても、それがいつの間にか共有されずに島宇宙に回収されてしまう。そのこともまた、「ふざけている」現状の、一断面ではあるのである。

その現代にさえ、俳句が、主題を持ちうるのか。
というか主題ってそもそもどんなものを言うのか。
これから、すこしづつ考えていきたい。



*1 パネルディスカッションでの佐藤の発言。記録、佐藤9「タイトルに名前を入れていただけるというのは大変に光栄なことでございますが、正直に言って驚いてしまいまして。・・・「なにか『新しい』ことができるなどといまだに本気で考えているとしたら、それはむしろ狂気である。」ってとこです、私、たぶん狂気なんじゃないでしょうかね。いまだに新しいことをやりたいと思ってます。」 
ちなみに、山口10は、外山論への反論として、「形式を消費するということに新人の俳句の価値を置いていること」に対し、「そもそも形式を使いこなすというのは、俳句をする、俳句表現を行うという上での前提なんじゃないかな」という発言をしている。これも「俳句形式を完全にわがものとする」自由を得た(小川前掲書P.206)という昭和三十年代俳人の認識と通じるところがある。

*2 高山32

*3 高山68の発言。「主題の回避というのは当然、同時にその主題を作り出す主体の回避ということにもなるわけですけれども、主題や主体を回避するというのはじつは俳句界全体の少なくとも過去三十年くらいのスタンダードだと思うんですよね。」

*4 むろん、現代も含めて本当に「開拓すべきフロンティア」が存在しないかどうかはわからない。たいてい新しい形式や表現の発想はコロンブスの卵のように出現するもので、後から見ればどんなに必然的でも、当事者たちにすれば「フロンティア」が始めから見えていたわけではないだろうから。とは言っても、私を含めて目に立つ新しい「フロンティア」発見の方法はなかなか見出しにくい現状ではある。

*5 すでに書いたことだが、個人的には話題の『海藻標本』以上に、「週刊俳句」93号において発表された群作「ケーコーペン」(http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/02/blog-post_5259.html)、特に「佐藤先生僕の消しゴム嗅いで去る」
が秀逸だった。この群作では既存の俳句にない語彙と感性が何の抵抗もなく俳句の文脈に落とし込まれており、いくつかの俳句的タブーを軽やかに侵犯しつつ、かつ無理を感じさせないという点で驚異だった。
昨年の角川俳句応募作も、両極の「平衡感覚」という視点から理解すべき作品群だろうが、個人的にいうとこちらは、緊張感がありすぎて、疲れた。これは批評というか感想である。

*6 前稿 曾呂利亭雑記: 我はロボット附記参照
*7 ―俳句空間―豈weekly: 鶏頭論争もちょっと、にちょっと・・・山口優夢
「ちょっとにちょっと、にあれこれ、にちょっとずつ」http://blog.goo.ne.jp/y-yuumu/e/a2417233f95ffa35c20dc9dc4fec3fd6

 

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