2010年1月8日金曜日
週刊俳句……と、読まれること。
なんだかばたばたしていてお知らせが遅くなりました。
「週刊俳句」2010年新年詠に投句させていただいてます。
→ 週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句 第141号 2010年1月3日
お正月ならではのなんとも読み応えある素敵な顔ぶれのなかに自分の名前が混じっているというのは何とも言えない気持ち。
↑ あー、これって、「週刊俳句に載せてもらってうれしいw」な、権威w的考えでしょうか。
でも、ある程度の「活字化」、「オフィシャル化」に対する憧れとか、緊張感とか、って悪いものではないとおもいます。問題はそれに囚われすぎることなので。
私自身、当たり前ですが、居酒屋で友人同士で話すことと、目上の人がいる場合と、いろんな人が見る可能性の高いブログでの発言と、さらにいろんな人が見る可能性の高い人気サイト「週刊俳句」での発言と、では、全部切り分けてます。
それは、裏表とか、嘘つくとかではなく、言わなくていいことを言わないだけ。
書くと、ものすごーーーく当たり前のことですが、これが意外とわかってないんんじゃないか、という人が多い気がするわけで。もちろん、自分自身も馴れてきてはき違えることが、ないとは言えないので、このあたりは自戒も含めています。
ちなみに、句を人に褒められるか、褒められたいかどうか、みたいな話題についても、それほど真剣に議論せず、「囚われすぎない」程度に理解すればいいと考えています。
自分が信頼している人にきちんと評価されれば嬉しいし、評価されたくて頑張るのは悪いこととは思わない。評価をうけたくなければ、評価の場に出さなければいい。
「作品」、特に俳句は自分が作るだけでは機能しない、読まれるとき、読まれる場に出されるとき、はじめて「作品」として機能するのだと、そう思う。
ただ、それだけ、が目的なのか、ということと、読まれないときにどう動くか、ということと、まぁ二つとも同じようなことですが、このあたりをはき違えるとちょっとまずい。
自分が評価されないのは評価者が悪い、主催者が悪い、と居直って改善しないのは、まぁ、見込みなし。これに変な政治的圧力を想定したりして悪口を言いふらし始めると、これはもう救いがたい。
評価されない、つまり自分と評価者との間にズレがあるなら、そのズレを埋めるにはどうすればいいか、あるいはズレを超克した作品を作れないか、を考えるのが作家だろう、と思うわけです。自分と評価者との、まぁぶっちゃけていえば妥協点というか落としどころ、それが流通される「作品」ということではないかなぁ。
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