2015年9月28日月曜日

短歌のグラデーション


最近、学生短歌会に所属する若い作家たちと、知り合う機会があった。

話していて驚いたのは、若い作家たちの目配りの広さである。
同世代の仲間だけでなく、歌集を出したばかりの作家や、現代の代表的作家について、あるいはTwitterで話題のイベント、結社のことまで、実によく把握している。

もちろん全員がそうだというわけではないのだろうが、そういえば短歌では現在、書肆侃侃房からは新鋭短歌シリーズが刊行中であり、若い作家の生きのいい作品をすぐに手にとることができる。学生短歌会の作家たちにとっては直近の先輩(なかには実際学生短歌会の先輩も多い)による活躍がすぐに見えるわけで、刺激になっているに違いない。

彼ら学生短歌会は、いわば「歌壇」の予備門的な位置付けにあって、学生短歌会から結社への流れはとてもスマートに見える。

同世代で切磋琢磨しながら、やがて新人賞・結社賞、歌集の出版、総合誌や結社誌での原稿執筆、・・・という流れである。

「歌壇ヒエラルキー」のなかで、順当に世代交代が進んでいくのであれば、とかく世代間の温度差が目立つ「俳壇」から見ると(隣の芝生であるにせよ)、うらやましい。

一方で、既存の「歌壇」とはべつに、短歌を楽しむという人たちもあるようだ。

たとえばTwitterなど主にSNSで呼びかけあって作品を発表したり、情報を交換している人たち。
年齢からいえばもちろん彼らも「若手」であり、なかには大学短歌会や結社に属している人もいるが、社会人で短歌に興味をもち、既存の短歌会や講座とは無縁に参加している人も少なくないらしい。
そうした「趣味的」な若い作家たちに話を聞くと、サブカルや文芸全般に関心があり、偶然知った作家や作品にひかれて実作を始めた、という。
こうした動きのなかで、昨年俳句Gatheringでお聞きした土岐友浩さんの言葉をかりれば、Twitterなどに「謎の読み巧者がいる」のだという。(参照 曾呂利亭雑記 俳句Gathering
御前田あなたさんなどはそうした読み巧者のひとりである。

先日はじめて参加した大阪文フリ(文学フリーマーケット)では、さまざまな文芸サークルとともに大学短歌会が同人誌を出店。
ほかに土岐さんの同人誌「一角」「率」など、すでに活躍中の若手作家や、BL、百合、鉄道など特定ジャンルに特化したものまで、短歌からは多くの出店が目についた。

ひるがえって俳句界では、手前味噌だが、佐々木紺さんが主導して私も加わったBL俳句本 『庫内灯』が、もっとも目立っていたのではないか。
私が立ち寄ったのは小鳥遊栄樹、森直樹、川嶋ぱんだなど行動力のある一部の学生が集まったブースで、自家製の小句集やフリーペーパーなどを置いていた(川嶋ぱんだは、甲南大学( )俳句通信として参加)。
他には自由律俳句のブースと、あめふりロンドというブースがあったようだが、こちらは残念ながら見逃していた。
また、京都造形芸術大学出身者によるザ・ひも理論ズの冊子では千野帽子氏主催の少年マッハ句会録が掲載されていたが、これを俳句側と見なしてはかえって千野氏の意図に外れるか。
要するに文フリという現代の同人誌文化において、俳句の存在感はきわめて薄かった。

とはいえ私が言いたいのは、単に文フリ出ようぜ☆、とか、ましてBL俳句凄い!! とかではない。
問題にしたいのは、グラデーションの問題である。

短歌界が、俳句界と同じく結社を基盤として「歌壇」を形成しながら、カルチャースクールや新聞投稿欄に止まらず、大学短歌会、SNSなどの趣味的サークルにも広がっていること。そして、それぞれの参加者がそれぞれ興味関心の在り方に応じて掛け持ちしたり、重心を移したりしながら短歌と関わり続けていくこと。
短歌と関わる在り方が多様であって許されることが、とても健全であると思う。

俳句も同じである。俳句に関わる濃度が、白か黒か、二分法で分けられるのは寂しい。
結社や同人グループで継続的にやっていくか、趣味でゆるゆると続けるか。
それは時期や環境によっても変化するし、一概に決められるものではない。だから、グラデーションとして多様であることが望ましいのである。
俳句甲子園出身者たちや各種アンソロジーの布陣を見れば、俳句界も若手作家の数や質において、短歌界にくらべ大きく遅れているとは思えない。
しかし、若い作家をとりまくインフラ整備は、まだ大きく立ち遅れているように見えるのが、現状ではないだろうか。


9/28 23:30 誤植訂正。リンク再設定。

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