2015年9月5日土曜日

鴇田智哉のわからなさ あるいは中山奈々について


外山一機氏の時評「立派な大人にはなれない」(『鬣 TATEGAMI』55号、2015.05)をようやく拝読。

中山奈々について語る「困難」から始まり、中山の句が「成長することのない」「空気系」「キャラクター」を想起させると述べたうえで、柳本々々氏の論考「週刊俳句 Haiku Weekly: ぼんやりを読む ゾンビ・鴇田智哉・石原ユキオ(または安心毛布をめぐって)」を引用しながら、かつて正木ゆう子が「起きて、立って、自分で服を着ること、俳句をつくるとはそういう行為である」と述べた「そういう行為」が、「僕たち」にとってリアリティを喪失しつつある時代にある、と結論する。


論の内容については、外山氏の評論中にも言及される柳本氏がブログで反応しており、そちらを参照いただいたほうがわかりやすいかと思う。


ちなみに柳本氏の評論は「時評」というスタイルの特色についても論じており、示唆的である。


ところで、私にとって違和感が残るのは、「鴇田智哉」と「中山奈々」がともに「リアリティを喪失した世代」として等質に語られていることだ。


とはいえ、そもそも私には鴇田智哉氏の俳句がいまいちよく分からない。


といって、中山奈々の句が分かっているわけでもない。


ただ、中山句の「分からないさ」と、鴇田句の「分からなさ」は、私にとって大きく異なる。


俳句を「分かる/分からない」で分別することに躊躇もあるが、もちろんここでいう「分かる/分からない」は、内容や意味についてではない。

俳句を読む時は「分からない」が「魅力的」と思うことも、「分かる」が「魅力がない」ということもあるだろう。私がここで「分からない」というのは、句の魅力というか、力というか、面白さの方向ということだ。

実際のところ、私にとって中山の「分からなさ」は、「分からない」が、その先に展望がある、期待感と魅力を孕んだ句である。

ところが、鴇田氏の「分からなさ」は、私にとって「分からない」の次元に止まり、その「面白さ」を味わうことができないでいる。

ただ、私のなかにある「違和感」を手がかりとして、私なりの「反応」を記すことはできるかも知れない。先達に導かれながら、私の「違和感」のありかを考えてみよう。




中山は、関西にいることもあって行動をともにすることが多い作家のひとりだが、なかなか本質のつかみづらい作家ではある。

単純に、句集としてまとめていないからまとめて読むことが難しい、ということもあるのだが、そうでなくとも中山の句は発表されるごとに印象が変わるし、まだまだ実験段階とも見える試行が、成功であるか失敗であるか、判断がつきにくいとも思う。
実際、外山氏が論評の対象としている「-BLOG俳句新空間-: 【俳句作品】 ジャポニカ学習帳」に、中山の特徴が強く出ているとも思えない。

むしろ近作でいうなら『里』2015年5月号に、「里」編集長就任記念として掲載された「アルコールスコール脳が出ぬやうに」のほうが、中山らしい。

 吐きやすき便器なりけり桜桃忌 中山奈々
 ががんぼや酔へば厠の壁殴る

もっともこうした、いわば無頼の俳句が中山の全てだというつもりはなく、別の媒体では次のような句も作っている。

 夏の月までぶかぶかの靴はいて
 棚に本戻し忘れて百日紅 

かつて私は中山の句を「身の回りの物語や言葉に対する関心が強く、好きな言葉への執着が強い」「大げさに言うと、日常や非日常の全てを俳句にしてしまいたい欲求を感じる」と評したことがある。


とにかく中山は、「ことば」そのものへの関心を原動力に、反射的と言って良いほどの手際で身の回りの「ことば」を五七五の韻律に乗せている、そういう印象がある。

近時発表された「週刊俳句 Haiku Weekly: 10句作品 薬」は、まさに冒頭にあげた外山氏の論考に刺激されたとおぼしい句群であるが、俳句と言うよりもほとんどtwitterに近く、頻出する固有名詞も、「酒」「薬」のような素材も、中山個人の私生活にあまりに密着し、果たして中山個人を知らない読者にとって「作品」たりうるのか、心許ない。

しかし、twitterという表現手段そのものが、肉体を持った言語表現(つぶやき)とデジタルな文字表現とのはざまにあるようなものである。

中山が「起きて、立って、自分で歩くこと」にリアリティを喪失した世代とするなら、しかしここには、それでも自分の「リアリティ」を立ち上げようとする「作者」の姿を読み取れないだろうか。
「ことば」へ関心をもち、「日常」のことばに反応する、そのなかで立ち上がる「作者」は、当然のことながらいわゆるリアルな肉体を持つ作家とは別であるが、当たり前に「読者」に対峙する(作家とは別の)「作者」が立ち上がることにこそ、実は新しさがあるのではないか。


鴇田智哉の第二句集『凧と円柱』(ふらんす堂、2014
)からいくつか句をひく。


 
芒から人立ちあがりくるゆふべ   『凧と円柱』

 梨を剥くひびきは部屋を剥くひびき
 たてものの消えて見学団が来る
 二階からあふれてゐたる石鹸玉
 7は今ひらくか波の糸つらね

これらの句は、たしかに「面白い」し、その面白さは「分かる」。

芒原で人が立ち上がってやってくるというそれだけの描写が、ひらがな書きと相まって不気味に迫る「ゆうべ」。
シャリシャリという硬質の響きが、「梨」と同時に「部屋」を「剥く」と感じてしまう作者の在り方。
廃墟を回る「見学団」の奇妙さが際立たせる、かつて存在した「たてもの」の(ひらがなの)存在感。
「7」がひらく瞬間とは何だろう。「波の糸」をつらねるとはどういう景色だろう。前半も後半もまったくわからないが、「今」の緊張感が、幻想的な句に強度を与えている。

はからずも「なな」に至ったが、私はこの「7」の句が一番謎めいていて、興味深く思えた。

しかしこの句は、鴇田句の特徴としてしばしば指摘される<ぼんやり>とは違ったところにある。

柳本々々氏は、俳句において重視された「写生」を重ねながら「近代的な〈見る〉こととは、おそらくは、〈歩く〉こと」だったと述べ、鴇田句(や石原ユキオのゾンビ俳句)において「正しい直立の歩行する観察者としての〈写生〉の挫折があり、〈写生〉の挫折からの、〈ぼんやり〉の提唱がある。」と言う。

〈ぼんやり〉を俳句領域でたちあげること。 
それが、鴇田さんや石原さんがゾンビ的ぼんやり身体でなしたことなのではないかと思うのです。 

 ぼんやりと金魚の滲む坂のうへ
 おぼろなる襞が子供のかほへ入る

しかし、どうだろう。それは「新しい」ことだったのか。

「川を見るバナナの皮は手より落ち 高浜虚子」が<痴呆性俳句>と呼ばれたように、もちろん手ざわりは随分違うとはいえ、<ぼんやり>は、有季定型のなかで、すでに胚胎されていた性質ではなかったか。

俳句史研究家、青木亮人氏は鴇田句を「現存最強の文体」と絶賛する。

誰もが体験しうる日常の些事を、鴇田が有季定型(季語+五七五)で詠むと白昼夢のように不安定な世界像に変貌する。
青木「俳句遺産 現存最強の文体」『現代詩手帖』(2015年9月)

このことは、鴇田智哉の文体が、有季定型のなかに完全に回収され、そこに新たな問いを加えることができていないことをも、示しているのではないか。

そしてまた、生々する日常に反応することなく、完成された、白昼夢のような「鴇田智哉」の定型にあてはめていく俳句になってしまわないか。
そういえば鴇田はかつて、「俳句の本質が季語なのか五・七・五なのか、究極の選択を考えた場合、季語のほうが優先順位が低いだろう」と述べている。(『俳句』2010年6月号「座談会 若手俳人の季語意識」)

ところで、これは句集を読みながら気づいたことだが、鴇田句には「剥く」「ひらく」などの動詞が、つまり、隠された内部がさらけだされるような動きが、特徴的にあらわれる。


 竹の皮剥がれレールの横切れり

 かなかなをひらけばひらくほど窓が
 断面があらはれてきて冬に入る 

写生する対象へ向かって深化する、あるいは、俳句型式そのものを研ぎ澄まし、内へ内へ深めていく。

それは確かに、俳句の在り方としてありうべき方向であり、一句としての職人的完成度は「最強」である。

しかし作品の総体として立ち上がる「作者」鴇田智哉は、読者の参加を待つまでもなく完成され、孤独である。それは、中山奈々が必死になって立ち上げようとする「作者」像よりも、ずっと一本調子で、意外性のないものに見えて仕方ない。



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