2011年9月25日日曜日

俳句ぽさって説明しにくい


更新さぼってました、すみません。

思うところはいろいろあるのですが、なんとなく気乗りしないうちにどんどん日数が。こんなblogでも見てくださっている皆さんには申し訳ない限りです。

サボっていると如実に出るのが閲覧(アクセス)数の減り方。
逆に、たまにハネ上がるときがあって、それはたいてい、どこかのblogかTwitterでとりあげられたときである。
最近だと、9月10日にアクセスが増加していて、ふじみん(俳号:藤実)さんのblogでとりあげていただいていた。→そろそろそぞろ歩き:秘密という密


ここでは千野帽子氏の発言と拙文とをからめて話題にしていただいたが、記事を書いた時点では千野氏の発言については知らなかった。



俳句はおもしろいのに、その具体的なおもしろさが、俳句の世界の外にいる私のような一般人にはなかなか聞こえてこない構造になっています。俳句の世界の人は俳句のおもしろさを秘密にしすぎでしょ。
千野氏が「外」の人なのかどうか、とか、細かいところは抜きにして、俳句の面白さをもっと「外」に知って貰いたい、という私自身の立場としては、千野氏の発言にはまったく賛同する。
しかし冷静に考えてみると俳句の「おもしろさ」を「伝える」動きというのは業界ではすさまじい勢いで行われているわけで、それぞれの立場でそれぞれ行われているものだから大型書店の俳句コーナーだとか各種文化講座だとか、世の中に「初心者向け」の「俳句入門」はあふれかえっている。
もちろん、私としてはそうした講座で伝えられる「おもしろさ」以上の「おもしろさ」がある、と思うのだが、それも特殊なものではなく、たとえば小林恭二、坪内稔典、夏井いつき、といった諸氏によって紹介の努力がされている。
決して、「秘密」にされているわけではないのである。(むろんこれらはあくまで入り口であって奥にはもっといろんな「おもしろさ」があるのだが)。
それでも「俳句」が「秘密」に見えるとしたら、それは何なのだろう。

明らかに現代詩よりも短歌よりも、場合によっては一部の小説よりも膨大な「俳句人口」を抱えながら、それでも「俳句」が卑屈に「内向き」の文芸であり続けている、あるいはそのようなイメージで捉えられている、とすれば、それは何が原因なのだろう。
あるいは、これほど各結社が汗水垂らしても伝えられない俳句のおもしろさって、どうすれば説明できるのだろう。



と、おそらくそんなところに引っかかるのは、最近「川柳」というお隣さんのことを知ったせいでもある。
実は先日、名古屋で川柳のバックストローク大会にお邪魔してきた。

大会の第一部、シンポジウム「川柳が文芸になるとき」に関しては、ぼんやりしている間にふたつも緻密なレポートが出ているので参考にしていただきたい。
週刊「川柳時評」:川柳が文芸になるとき
週刊俳句 Haiku Weekly: 名古屋座談会印象記 野口 裕

当日、パネラーの湊さんがしきりとくり返していたのが、「川柳はインフラ整備が不充分だ」ということである。
確かに、ちょっと川柳作品を読んでみたいと思っても、なかなかいい本がない、と思う。
私はもともと不精な性質なので、俳句にしても個人句集よりもアンソロジーばかり読んでいるが、川柳はその手法が効かないので困っている。
大部なものは西村麒麟さんが紹介している東野大八『川柳の群像 明治大正昭和の川柳作家一〇〇人』(集英社、2004)があるが、作家紹介がメインなので引かれる作品が少ない。
ほかに『現代川柳の精鋭たち』(北宋社、2000)などを買ってみたが、なにしろ「21世紀へ」と副題があるくらいで、「昭和二桁生まれの作家を対象」(それも凄い括りだが)とした28人なのでおのずから限りがある。
ちなみに両書をあわせても、もっとも有名な川柳作家の一人と思われる時実新子や、善し悪しはあっても有名なやすみりえ、俳句界にはなじみ深い大西泰世、といった名前が入集していないのであり、とても全体を俯瞰するには足りない。

とすると、さしあたって管見のかぎりでは『セレクション柳論』(邑書林、2009)、樋口由紀子『川柳×薔薇』(ふらんす堂、2011)の二書を参考に、地道に一冊ずつ句集を探すしかないことになる。

最近、俳句を、もっとも俳句らしく見せている「俳句っぽさ」とは何か、と考えている。
少なくとも「俳句」に関しては、各種の手引き書やアンソロジーを入り口に、少しずつ奥へ分け入り、「俳句のおもしろさ」の正体を追って行ければ、少なくとも「どこか」へは至るだろう、という予測がたつ。
ところが、川柳にはそれがない。私がズブの初心者だからそう特にそう思うのだろうが、果たして川柳の「川柳っぽさ」は、どこに求められるのだろうか。



そのようなこととはほとんど関わりなく、俳句愛好者としての私にとってはとても面白く読める若手の句集が二冊。

中本真人『庭燎』(ふらんす堂)。

山口優夢『残像』(角川学芸出版)。

ともに『新撰21』(邑書林)に掲載された若手二人が、数年を経ずして、出版社も違うところから句集が出版される。同世代のパワーを感じて、それだけでも嬉しい。
もちろん、内容も面白い。
正直、論評したくないくらいで、たぶん、更新頻度が落ちたのもそのせいである。

厳選されているためだろう。
それぞれの作者のキャリアからすれば、掲載作品は決して多くない。そのぶん濃厚な部分が凝縮されていて、味わいは違うが、作者のカラーを堪能できる句集に仕上がっている。
それぞれの作品については、すでに名鑑賞がそろっているので贅言を尽くすことは避ける。
配列や句風の変化についてすこし考えたことがあるが、別稿に譲り、以下、それぞれ三句ずつあげるにとどめる。

『庭燎』
 傀儡のぺたりと倒れすぐ起きる
 落第の一人の異議もなく決まる
 ニュースにもならずだらだら祭果つ

『残像』
 どこも夜水やうかんを切り分ける
 目の中を目薬まはるさくらかな
 野遊びのつづきのやうに結婚す



でも、この二冊のおもしろさは「外」の人にはちょっと紹介しにくいかなぁ・・・。
 

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