2015年3月21日土曜日

かみがた


桂米朝さんが亡くなった。

高座に上がられなくなって、入退院をくり返しているという記事は何度か目にしていたので、突然の訃報にも、驚きはそんなにはなかった。
ただ、落語ファンとしては年季の浅い私でさえ、ひとつの時代が終わった、という空虚感でぼんやりしてしまう。
落語は、子どものころはテレビでやっているのを見るものだったが、たしか高校のときに枝雀さんが亡くなり、「生きているうちに聞きに行かないと死んでしまう」と思った。
それから米朝一門会に何度か見に行っているので、幸い、米朝さんの高座には間に合った。それでも、先代・桂文枝さんや、桂吉朝さんには、間に合わなかった。

「百年目」の、優しくて粋な「旦さん」が好きだった。これは幸い、ビデオテープにも録画がのこっている。
高座で「…いま思い出しましたけど」と言って始まる枕の小話が、好きだった。演出なのか本当かわからないが、「いま」だから聞ける、という喜びがあった。
「地獄八景」や「はてなの茶碗」は、米朝さんのを見ることはできなかったが、米朝さんが復活させてくれたから楽しむことができている。
米朝さんが上方落語を守ってくれた、そのあとで生まれてよかったとつくづく思う。
米朝さんの落語を聞き、楽しめる時代に育ったことを、本当に感謝している。



朝日新聞大阪版の本日(3/20)記事のなかで、米朝さんが連載していた「米朝口まかせ」(2005年9月~2013年11月)からの発言がいくつか引かれている。


いろんなものが東京中心になっている関東と違い、関西は大阪、京都、神戸とそれぞれに異なる文化の味が残っています。これはええことやないかな。
(09年2月)

落語家の師弟関係というのは不思議なもんやで。筋のええ弟子であればあるほど、育てば、やがて師匠にとってもライバルになるんやさかいね。私の一門でも、枝雀はそうでしたな。
(09年6月)



「江戸(東京)落語」に対して、「上方落語」という。
「上方」は、京都・大阪の文化を総じての言い回しである。
大阪は船場を中心にした商人文化であり、京都は町衆と公家が作る都の文化である。神戸の港町文化は明治からこっちとしても、関西人と一括りにできないのは、それぞれがそれぞれ別々にプライドを持っているからだ。これが関東では、鎌倉、横浜がいくらがんばっても、やはり東京に対抗できる、ということはありえない。
そのためだろうか、関西人気質というのは、どこか一極集中ではなく、よくいえば多様性があり、悪くいえばまとまりに欠ける。

俳句界も、そんなところがあるのではないか。

宇多喜代子さんがよく主張している、関西の融通性、波多野爽波が前衛俳人たちと付き合って現代俳句協会へ加盟するような、阿波野青畝や山口誓子がいつまでも日野草城と友情を保っていられるような、そんな気質は、やはり「上方」、関西の風土だと思う。
宇多さんに言わせるとそれは「大阪が町人文化だから」となるのだが、私は上に述べたような、中心地のない(あるいは中心が複数ある)文化だからだと思っている。

なんというか、東京の俳句界では一つのスタートがあって一つゴールがあってみんなで駆けっこをしているのだが、上方では、スタートとゴールがたくさんあるなかでいっせいに競うような、ところがあると思う。
近ごろ勉強した大正末年あたりを想起すれば、東京は丸の内にホトトギス本社がありすべての耳目がそこを中心にしていたように思う。
しかし関西には巨人がいないかわり、子規時代の生き残りである松瀬青々、青木月斗がおり、一方で京都ではホトトギスの新鋭が育ちつつあり、大阪では財界人が俳句を楽しんでおり、というような、そんな価値観の並立を許す独特さが、ある。
イスとりゲームでひとつとり負けても他のイスがあるというような、いやむしろ、イスの取り合いに夢中になっている人たちを茶化して笑ってしまうような、そんなところがあるのが、上方の強みなのではないか。




追記。
関西から東京へ移られてずいぶん長い、関西人な西原天気さんが、当記事に言及してくれていました。
週刊俳句 Haiku Weekly: 後記+プロフィール413

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