2013年5月16日木曜日

大向こうから



歌舞伎を観に行ったことのある人ならご存知のとおり、劇中、盛り上がったところで「大向こう」から声がかかる。

 中村屋!

とか

 七代目!

とかいう、アレである。

本当は誰が掛けてもいいらしいが、ここぞ!のタイミングでいい声をかけるのは難しく、実際には公認組織に所属している人が率先してやるのを聞くことが多い。劇場公認の会員になると、安価の幕見席をフリーで観られるのだそうだ。

歌舞伎には当たり前な「大向こう」について、以前、たしか市川染五郎さんだったと思うが、トーク番組でその特殊さを指摘していた。

なぜ、劇中に役名ではなく本名を呼ぶことが許されるのか。

考えてみれば不思議なことで、劇団四季がライオンキングを上演している最中に、「シンバ!」と声を掛けるならまだしも、役者の本名で応援なんかしたら興ざめ間違いない。下手をすると劇場から追い出される。

ところが、「成田屋」とか「中村屋」は、まあ芸名であり、本名である。

つまり歌舞伎には、作品の個別ストーリーがどうであっても「役者」が観られればよい、という見方がある。それが、許されている。


参考.ほぼ日刊イトイ新聞 大向こうの堀越さん。



荻田清氏『笑いの歌舞伎史』(朝日選書)に、次のようなエピソードがある。

学生時代の荻田氏が初めて大阪の新歌舞伎座で見たとき、上品そうなおばあさんが話しかけてきて、芝居の内容がわからないので教えてほしい、と尋ねられたのだという。
当時の演目は「双蝶蝶曲輪日記」で、近松を研究しようとしていた荻田氏は熱心に人物関係や内容について説明してあげた。
それを聞いたおばあさんは感心してくれて、これでこの話の筋がようわかりました、と感謝された。イヤホンガイドのまだなかった頃の話である。 
その時、わたしはこのおばあさんのような観劇の仕方、筋などわからなくても歌舞伎を楽しめることを知って、ショックを受けた。おばあさんは、長五郎を演じる八代目の坂東三津五郎と十字屋女房・お早を演じる二代目中村扇雀(現・三代目鴈治郎)※引用者注、現坂田藤十郎 を見に来ていたのだった。失礼な言い方をすれば、筋などどうでもよかったのだ。
荻田清『笑いの歌舞伎史』(朝日選書、2004)


歌舞伎は、人がライブで演じるものとしては演劇なのだが、一方で「西洋芸術の一表現様態(ジャンル)を前提にして」言う場合の「演劇」に含めていいのかどうか、はなはだ悩ましい。

そもそも「歌舞伎」は日本で育った「歌舞伎」なのであり、ジャンル分け、レッテル貼りなんて便宜上のものでしかない。



「俳句」は「文学」かどうか、あるいは「芸術」かどうか、という古い古い設問がある。
今の私の心境は、正直なところ、

 俳句は文学だって、そう考えていた時期が俺にもありました・・・・・・

という感じである。

正岡子規が「俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。」と述べた時代。
あるいは石田波郷が「俳句は文学ではない」と喝破し、桑原武夫が「俳句第二芸術論」で一世を風靡した時代。
摂津幸彦が「恥ずかしいことだけど、僕はやっぱり現代俳句っていうのは文学でありたいな」と呟き、
川名大が『俳句は文学になりたい』をタイトルに掲げ、
仁平勝が『俳句が文学になるとき』でサントリー学芸賞を受賞した。

それぞれは、それぞれに「文学」というジャンルをある程度規定し、そのなかで「俳句」を考えようとした。
それぞれは、それぞれに考えたすえ、あるいはわかりやすさを、あるいは表現史の高みを、意識して「文学」と対峙した。そのことには意味があったと思う。

実際、「俳句」だけではないのである。
表現史の際を求めようとあがいた意識的な作家も、
ちょっと変わったことを言ってみたい文芸評論家も、
文学研究に新しい視座を取り入れようとした古典研究者も、
それぞれのジャンルからそれぞれが「文学」を定義し、「文学」の仲間入りをしようとしてきたのだ。

漫画は文学か。江戸の黄表紙は絵入りである。絵巻物はどうだ。ライトノベルは文学か。ニーチェが文学なら『法華経』は文学なのか。親鸞の思想は文学か。手紙はどうだ。日記はどうだ。絵本は、アラビアンナイトはどうだ。作者が特定できない昔話は。・・・

さまざまな「文芸」=文章表現を表現の問題として捉える、という見方は、たしかに「文学」を豊かにした。

しかし。その結果。
膨らみすぎた「文学」という枠は、もうなくなってしまった。

もう、そろそろいいだろう、と。

「文学」を標榜する人たちは、その「文学」という価値観、基準が、全く無根拠で曖昧であることに気づいていない。
あるいは気づいていても無頓着である、ように見える。

別に「文学」は西欧近代の表現ジャンルだから、というのではない。
西欧近代のnovelを規範とするもの「だけ」を「文学」と呼ぶならば、それもよい。
あるいは逆に、本来の語義にならって漢詩文だけを「文学」と呼んでもいいだろう。
そうであれば、むしろことは単純なのである。

そうではなくて、個人の恣意的な、定義しようのない「何か」を基準にして、「これは○○である/○○でない」という議論を繰り返すことが不毛なのだ。

結局のところ、その場合の「文学」は、あなたにとっての「文学」でしかなく、いま厳然と目の前に存在する「それ」を「文学にあらず」と否定する、怠慢こそが問題なのである。


「俳句」は、「文学」でなくたっていい。


※5/26誤字訂正
 

1 件のコメント:

  1. くるしまくん、数か月前、朝五時すぎのマックにまでつきあってもらった吉田です。覚えてますか。あのときくるしまくんと連絡先交換しなかったのが悔やまれているので、一度ぼくが渡した名刺のアドレスにメールいただけませんか。恥ずかしいほど飲んでしまったなあ、あの夜は。ご迷惑おかけしてすいません。でも、また飲みたいです

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