2012年8月22日水曜日

『俳句いきなり入門』を読んでみた

  

最近、学生相手に「句会」の授業をするような機会もあるので、同じ関西圏ということでも関心をもっている千野帽子氏の『俳句いきなり入門』(NHK新書)を読んでみた。

帯におおきく「俳句は一発芸」と書いてあり、また「俳人はDJだ。句会はゲームだ。季語にはこだわるな。言葉を無限にひらく「座の文芸」にはまろう」とも書いてある。

私自身、人には「題詠」は大喜利、「取り合わせ」のパターンは「季語+あるあるネタ」だ、と紹介したりしている。だから本書のほとんどの部分には賛成で、楽しんで読むことができた。

本書の概要については、ぐだぐだ解説するより、目次を見るとわかりやすい。 

まえがき 短いんじゃない。俳句は速いんだ。

あなたの「俳句適性」をチェック!/「自分を表現したい!」って人に俳句は向きません/俳句は高度に知的な言語ゲームである

第一章 句会があるから俳句を作る
1 俳句を支えているのは作者でなく読者である
2 一句も作らなくても句会はできる
3 俳句は「私」の外にある

第二章 俳句は詩歌じゃない
1 俳句は速い
2 俳句は「モノボケ」である
3 俳句は散文の切れっぱしである

第三章 言葉は自分の「外」にある
1 千野帽子、はじめての作句
2 作句における「言語論的転回」
3 ダメな句は全部似ているが、いい句は一句一句違っている

第四章 だいじなのは「季語以外」だった
1 季語と歳時記の基本
2 季語の説明はしないこと
3 季語は最後に選べ 

第五章 きわめておおざっぱな「切れ」の考察  <以下小節見出し題省略>

第六章 文語で作るのは口語の百倍ラク

第七章 ひとりごとじゃない。俳句は対話だ。

作者が言いたいのは、ようするに俳句は「言葉」であり、「言葉」は自分の内にある思いを表しているようなもんではなく、外から借り物で使っているだけで、発せられたとたんに自分と関係なく自由に解釈されてしまうものだ、そして俳句はその「言葉」が作者から離れていく感じを体感的に楽しめる言語ゲームである、という、

つまり、「言いたいことがあるなら俳句なんて書くな」ということなのだ。

実際、句会では俳句は作者を離れて自由な解釈がなされていくし、実体験にもとづいて作った句が季語や全体のバランスから添削される、つまり「表現」された結果のほうが実体験や作者の意図よりも重視される場面に遭遇することも多い。

作者はこれを、「言語論的転回」と呼ぶ。

小気味いい断定調で、独りよがりなポエム志向を徹底的に否定する、その実践的な教授法は枡野浩一『かんたん短歌の作り方』なども想起させ、なかなか参考になる。なにより、無記名な句会の「対話」性を楽しもう、という本書の主張は、もっと世間に広めたい。

ほかにも、「俳句は速い」というキー・ワードは山本健吉の「時間性の抹殺」とつながるだろうかとか、坪内稔典は「俳句は片言」というが「散文の切れっぱし」と言い切ってしまうと「切れ」や「定型」と折り合いがつくだろうかとか、「写生」は「異化」だ、ということは前々から考えていたことに近いなとか、考えさせられることが多かった。


しかし、この本を誰かに紹介しますか、と言われると、ちょっと迷う。

「まえがき」で記されるとおり、本書は「まったくのは俳句未経験者、あるいは「俳句って年寄り臭い趣味でしょ」と思い込んでいる人、つまり俳句の「外」の人を読者に想定している」。 したがって、すでに俳句を年寄り臭い趣味と思っていない人、俳句を楽しんでいる人、まして当blogの訪問者のほとんどには、あまり意味がない。

では、俳句をまったくしない人にオススメできるだろうか。

それも少し迷う。とっつきやすい文体とは裏腹に、本書には要所要所に文学理論の用語やサブカル系のたとえ話が結構入っており、普段読書に慣れていない人にはちょっとしんどいのではないか、と思ってしまう。

そのほか「俳句未経験者」にすすめるには、いくつか違和感を覚える記述もある。

たとえば、後半の俳句技法に関する記述。
「切れ」を発句から解説して「言い切りのかっこよさ」とまとめ、「季語」を説明するような句はダメだと言って二物衝撃をおススメし、「文語俳句」のほうが俳句っぽく見えやすくてラクだ、とぶっちゃける。
なるほど、この通り作ればいかにも「それっぽい俳句」ができるだろう。だが、それにしてもストイックというか、初心者入門としては条件が多くはないか。
最初からポエムはダメ、口語は難しい、切れが大事、季語に気をつけろ、文語は正しく使え、と散々言われて、どれだけの人がついてくるのか、私などは心配してしまう。
(そういえば、本書の参考文献で私がほとんど参照したことがないのが、藤田湘子『俳句実作入門』『20週俳句入門』である。このあたりが千野氏との違いらしい)

結局、本書は「俳句入門」というより「言語論的転回」体験入門なのだ。

作者は、はじめての句会でむりやり句を作らされた結果、一句目は自分の体験や意図を大事にした「第一段階」の句しかできなかったが、二句目にはどのような「言葉」を使うかが大事だ、と「言語論的転回」に成功し「第二段階」に達した、という。
なぜ一句で卒業(注、言語論的転回以前の第一段階)したか。たまたま私がそういうタイプの「読者」だったからだろう。 
私は批評家ではないけれど、日曜文筆家としての仕事の大半は先述のとおり、小説や散文を読んでそれについて書くことだ。もともと私は小説の読者として、「作者の意図よりも結果のほうが大事」だと考えてきた。・・・でも初めて俳句を作ることになったとき、俳句は小説とは違うのかなと思って無理やり「これを言おう」という作りかたをしたら、うまくいかなかった。俳句も小説同様に、いや小説以上にそうでした、という話。

作者が「句会」に熱中する、その理由がよくわかる。

ところが「俳句」には、それ以外の面もある。句会では作品が作者と無関係に解釈されるけれども、句集や冊子の場合には、どうしたって「作者名」がついてくる。まとめて読むときにはやはり、句集一冊ぶんの「作家」の個性が見えてくるほうが面白い。

実作者としてやっていくとそこが一番問題なのだが、本書では、言語論的転回を経た、その先の「作家性」がどう立ち上がってくるか、という話は言及されていない。 
むろん、そこはむしろ千野氏の本業だろうから射程に入っていないわけがないのだが、そのあたりの見通しが、本書の記述だけでは一面的、という気がする。

本書が「外」へ向けて書かれた「入門」だからなのか、作者の眼は「外」に向いていて、「中」の、ゲーム性を逸脱していくような多様性(つまり基礎を終えた応用編)に関する記述が、あまりに少ないように感じられるのだ。
そこが本書の一番の違和感であり、「俳句の中の人」に無用の反発を生む要因であるという気がする。作者自身も本書のなかで桑原武夫「第二芸術論」を引いていて、坪内稔典氏の「第二芸術論的視点」と共通性を感じさせる。しかし、坪内世代ならともかく、今さら「中」か「外」かをケンカ腰で話す時代でもないだろう。
だから、我々「中の人」としては、言うべきなのだ。

千野さん、そんな「入り口」で踏ん張ってないで、「中」も見てみて下さいよ、と。


きっと、俳句のおもしろさは、「速い」だけでなく、もっと、「広い」。

 



※8/24、追記。
「詩客」 俳句時評で、湊圭史さんも本書に触れている。
やや辛口ながら、まぁ俳句時評としては当然か。「一発芸」というときの「芸」をどう読むかはむしろ「お笑い論」にもなりそうなので難しい。正直、又吉直樹のモノボケと、間寛平の一発ギャグと、テツandトモの「なんでだろ~」の、どれを基軸に置くかで全然違いますね。
倉阪鬼一郎『怖い俳句』は私も読みました。これもたいへん面白かったです。ご本人がいうように、学芸員さんが博物館案内してくれてるような感じで、嫌みなく俳句のあらましがわかる本ですね。

ついでなので、各界賛否両論の『俳句いきなり入門』評判まとめ。

1 件のコメント:

  1. お久しぶりです。京都駅周辺での吟行ではいかがでしたか?
    私も上掲書を買って読んでみました。「季語」とか「切れ」などはほかの入門書でも書かれてますが、「一句も作らなくても句会はできる」ということはこの本で初めてみました。俳句入門書にしてはちょっと例句が少ないかなとも思いましたが。
    私などはたくさん入門書読んでも、実際5・7・5の形で俳句が出来るようになるには結構時間かかりました。(その間、ひたすら句集読んでました)

    返信削除