2012年7月9日月曜日

木枯、補足

 

昨日言及した、

 海に出て木枯帰るところなし  誓子

の自解について、『自作案内』(増岡書店、1953年)の記述を読み直すと、特攻隊との関係がちょっと微妙だったので引用してみる。せっかくなので誓子独特の文体とともに参照いただきたい。
 この句の鑑賞を一番はじめに試みたのは西東三鬼氏であつた。その鑑賞は微妙な点にまで触れて実に美事であつた。自分の力で鑑賞出来ない人々は氏の鑑賞に依つてこの句に親しんだ。又その鑑賞の、余りの美事さに反発を感じた人々はこの句のあちこちにケチをつけた。
 言水の「こがらしの果はありけり海の音」の亜流だと云ふ評者もいた。さうかしら。言葉に類似点はあるけれども、句の志向するところは全く別である。わかるひとにはわかるてゐる。不当批評調査委員会にかける迄もない。
「海に出て」が要らぬではないかといふ評者もゐた。これは相当ある。名は挙げぬがホトトギス派の誰彼。戦後青年派の誰彼。
 「木枯帰るところなし」で十分と云ふのであるか。驚くべき無欲恬淡である。しかし「海に出て」は、この句になくてはかなはぬもので、これを除去すればその瞬間にこの句は無いのも同然だ。そのこともわかるひとにはわかつてゐる。これも不当批評調査委員会にかける迄もない。
 ケチをつけたのではないが、この句に驚くべき鑑賞がある。
 それは――この句は「海に出て木枯」で切つてそのつぎに「我は」を入れ、さうして「帰るところなし」とつゞければ、鑑賞し易いといふのである。
(中略)
 木枯は海に去つた。私は―戦災に会つて―帰るべき家はない、そのひとは私の句をさう受け取つたのではあるまいか。
 しかしそれでは意味がちがつてしまふ。私の句はそんなのとはちがふ。
 木枯は陸を離れ、海の彼方を指して出て行つてしまつた。木枯は行つたきりで最早還つて来ることはない。その木枯はかの片道特攻隊に劣らぬくらゐ哀れである。この句の出来た日に
  ことごとく木枯去つて陸になし
といふ句も出来たから、句集には入れて置いた。人によつてはこの方がいゝと云ふ人もある。

初出は『炎昼』掲載の「作者の立場」。後記によれば昭和24年3月起筆。

稿の冒頭に序文のようなものが書かれており、
 自己の作品は貶されるより褒められる方が嬉しいにちがひないが、貶されるならば正解によって貶されたく、褒められるならば正解によって褒められたい。曲解による褒貶はいづれもありがたくないのである。 私は「炎昼」の紙面を借りて誤まり解された自己の作品を正して見たく思ふ。そしてそのとき自己の作品に欠陥あらば痛烈に反省して見たく思ふ。
とある。

「不当批評調査委員会」とか「正解」とか、時代なのか個性なのか、作品の鑑賞や批評が、作者を離れて読者のものと捉える現代批評の観点からは相当乖離している。
文中では他に「鑑賞とは読者が作者の意図を探り当てゝ快さを感ずることである」と断言していて、上の引用文で三鬼の鑑賞を絶賛しているのも、「作者の意図」と合致したからなのだろう。
なんというか、「作者の絶対的優位」が信じられていたのだな、という感じが、よくわかる。


さて、前掲文では、「特攻隊」との関係は明確に肯定も否定もしておらず曖昧である。

もし作句のときに意識していたのであれば、もう少しわかりやすく「作者の意図」を書きそうなものだ。とすれば、やはり作句の時点ではもう少し漠然としていたものが、あとから「片道特攻隊」のイメージに収斂していった可能性がある。

これは、「鑑賞」という読者からの行為が「作者の意図」「作品の意図」にも作用した、とも考えられる。三鬼など同時代の鑑賞などを確認すれば、もう少し具体的に詰めることができると思う。すこし考えてみたい。



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